4月19日 主日礼拝 メッセージ
マタイによる福音書28章16-20節 「見守ってくださる方」
私たちは日々の生活の中で、「見守られている」と感じる瞬間がどれほどあるでしょうか。忙しさの中で、あるいは不安や孤独の中で、「自分は一人で頑張らなければならない」と思ってしまうことは少なくありません。特に新しい環境に立つときや、これまでとは違う一歩を踏み出すとき、私たちはふと心細さを覚えます。
けれども、今日与えられているマタイによる福音書28章20節には、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と記されています。この言葉は、復活されたイエス様が弟子たちに語られた最後の約束です。弟子たちはこれから、それぞれの場所へと遣わされていきます。頼れるイエス様の姿が見えなくなる中で、どれほどの不安を抱えていたことでしょう。しかしその時に与えられたのは、「大丈夫だ、あなたは一人ではない」という約束でした。
それは、ただ遠くから眺めているという意味ではありません。「共にいる」というのは、生活の中に入り込み、喜びも悲しみも分かち合いながら、絶えず寄り添ってくださるということです。どんな時にも、どんな場所にも、そしてどんな状態の私たちであっても、決して離れることなく見守ってくださる方がいるのです。
この約束は、弟子たちだけに与えられたものではありません。今を生きる私たち一人ひとりにも向けられています。私たちが気づくときも、気づかないときも、神様は変わることなく、静かに、しかし確かに、私たちを見守り続けておられます。今日はこの御言葉から、「見守ってくださる方」とはどのようなお方なのか、そしてその見守りの中で私たちはどのように歩んでいくのかを、共に聞いていきたいと思います。
「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この言葉を聞いた時、「見えないのに、本当に一緒にいると言えるのだろうか」と感じるかもしれません。それはとても自然な感覚です。見えるもの、触れられるものを私たちは確かなものだと感じます。ですから、「見えない存在が共にいる」と言われても、すぐには実感できないのは当然のことです。
けれども、私たちの人生には、「見えないけれど確かにあるもの」がいくつもあります。たとえば「思い」です。誰かが自分のことを気にかけてくれている、そのことは目には見えません。でも、ふとした言葉や態度から、「ああ、この人は自分のことを大切に思ってくれている」と感じることがあります。
あるいは、小さい頃の記憶です。親や周りの人に守られてきた経験は、目に見える形では残っていなくても、私たちの中に安心感として残っています。そしてその安心感があるからこそ、私たちは一人で歩き出すことができるのです。
イエス様の「共にいる」という約束も、それと似ています。しかしそれ以上に深いものです。人の思いは時に届かないこともありますし、いつもそばにいることはできません。でもイエス様は、「いつも」と言われました。場所も時間も越えて、どんな時にも離れないという約束です。
たとえば、小さな子どもが歩いている姿を思い浮かべてみてください。子どもは自分の足で歩いていますが、後ろには親がそっとついています。子どもはずっと後ろを振り返っているわけではありません。それでも、いざという時には支えてくれる人がいる。その安心があるからこそ、前に進む事が出来るのです。
イエス様の「共にいる」という約束も、そのような見守りに似ています。いつも目に見えているわけではないけれど、決して離れず、必要な時には支えてくださる。そのような見守りです。
この「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」の言葉は、色々な時に思い起こしてほしい言葉でもあります。
例えば、「一人で抱え込んでしまう時」です。
誰にも言えない悩みや、弱さを感じる時があります。「こんなことを話したら迷惑かもしれない」「こんな自分を見せたくない」と思って、心の中に閉じ込めてしまうことがあります。その時に、イエス様が言われた「わたしはいつもあなたと共にいる。」という言葉を思い出してほしいのです。たとえ誰にも言えなくても、すでに知っていてくださる方がいる。黙っていても、そばにいてくださる方がいる。そのことを知るだけで、心の重さが少し軽くなることがあります。
また、「先が見えなくて不安な時」にも、この言葉は支えになります。新しい環境に入るとき、仕事や人間関係の中で迷うとき、「これでいいのだろうか」と立ち止まることがあります。未来が見えないと、不安はどんどん大きくなります。その時に、「あなたは一人で未来に向かっているのではない」ということを、この言葉は伝えています。すでにその先にも共にいてくださる方がいる。その方が共に歩んでくださる。だから、完璧でなくても、一歩を踏み出してよいのです。
さらに、「自分に自信が持てない時」にも、この言葉を思い出してほしいのです。失敗したとき、人と比べてしまうとき、「自分はダメだ」と感じてしまうことがあります。そのような時、私たちは自分を一人で評価し、一人で落ち込んでしまいます。
けれどもイエス様は、「そんなあなたでも共にいる」と言われます。うまくいっている時だけではなく、うまくいかない時にも離れない。そのままのあなたと共にいる、という約束です。ここに、大きな安心があります。「頑張れたら一緒にいてあげる」ではなく、「頑張れない時でも一緒にいる」という約束だからです。
そしてもう一つ大切なのは、この約束は「感じられる時だけ」ではなく、「感じられない時にも」変わらないということです。人の気持ちは揺れ動きます。神様が近くに感じられる時もあれば、全く感じられない時もあります。でも、感じるかどうかに関わらず、イエス様は「共にいる」と言われます。
ちょうど、雲に隠れて太陽が見えなくても、太陽がなくなったわけではないように。見えないからといって、いなくなったわけではないのです。だからこそ、この言葉は、「今感じているかどうか」ではなく、「約束されている事実」として受け取ることができます。
私たちは、日々の生活の中で何度も立ち止まります。迷い、悩み、不安になり、自分を見失いそうになることがあります。その一つ一つの場面で、ふとこの「わたしはいつもあなたと共にいる。」という言葉を思い出していただきたいのです。
この「見守ってくださる方」は、遠くから見ているだけのお方ではありません。私たちの歩みのすぐそばにいて、迷う時には導き、弱る時には支え、離れることなく共にいてくださるお方です。そのお方は、聖書の中で「良い羊飼い」ともたとえられています。羊が道に迷いそうになる時も、疲れて立ち止まる時も、羊飼いは決して見捨てず、そばにいて導き続けます。私たちもまた、そのように見守られている存在です。その見守りの中にある安心を心に受け取りながら、共に歩んでいきましょう。

