5月3日 主日礼拝 メッセージ
使徒言行録1章6-11節 「力を受ける」
皆さんは日々の生活の中で、「力が足りない」と感じることがあるでしょうか。やらなければならないことは分かっているのに、一歩が踏み出せない。本当はこうしたいと思っているのに、不安や恐れが先に立ってしまう。あるいは、人と向き合う中で、認めたいのに認めきれない、赦したいのに赦せない等そのような自分の限界を思い知らされることもあります。
信仰の歩みにおいても同じです。神様を信じているはずなのに、その思いが揺らいでしまう。誰かに福音を伝えたいと思っても、言葉が出てこない。祈ろうとしても、心がついていかない。そのような私たちに対して、今日の箇所は、とても印象的なイエス様からの約束を語っています。
イエス様は天に昇られる時に「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」と弟子たちに言われました。ここで語られているのは、「頑張りなさい」という励ましではありません。「もっと強くなりなさい」という命令でもありません。そうではなく、「与えられる力」です。しかもそれは、聖霊が下るときに与えられる力だというのです。
では、なぜ聖霊が下ると、私たちは力を受けるのでしょうか。そもそもここで言われている「力」とは、どのような力なのでしょうか。それは単なる元気や気合いではありません。一時的な勇気や勢いでもありません。
この後、弟子たちは実際にこの約束を受けて、大きく変えられていきます。恐れて戸を閉ざしていた人々が、外に出て神様の事を語り始めます。自分のために生きていた人々が、神のため、人のために歩み出していきます。そこに働いたのが、聖霊によって与えられる「力」でした。今朝はこの御言葉から、聖霊が下るとなぜ私たちは力を受けるのか、そしてその力が、私たちの歩みの中でどのように現れていくのかを、共に聴いていきたいと思います。
それではまず、「聖霊はどのようにしたら受けられるのか」という大切な問いに向き合いたいと思います。弟子たちは、この時自分たちの力で何かを成し遂げようとしていたのではありませんでした。むしろイエス様は、「父が約束されたものを待ちなさい」と語られています。ここに大切な姿勢があります。それは、「受ける」という姿勢です。聖霊は、努力して勝ち取るものではありません。修行の結果として与えられるものでもありません。神様からの「賜物」として与えられるものです。ですから私たちは、まず「待つ」ことを学びます。
祈りながら、心を開いて、「どうか聖霊をお与えください」と願うのです。自分の力で何とかしようとする手を一度下ろして、神様に信頼して委ねるとき、その空いた手に、神様は聖霊を与えてくださるのです。弟子たちもまた、この後、心を一つにして祈りながら待ち続けました。その中で、聖霊が下り、彼らは力を受けていったのです。
では次に、「聖霊を受けていると、どうして感じられるのか」ということです。聖霊は目に見える形でいつも現れるわけではありません。しかし、その働きは確かに私たちの内側に現れます。
例えば、今までできなかったことが、少しずつできるようになる。赦せなかった人を、少し赦そうと思える。不安でいっぱいだった心に、不思議な平安が与えられる。あるいは、御言葉が以前よりも心に響くようになる。祈りたいという思いが自然に湧いてくる。誰かのために何かをしたいという思いが与えられる。
それは決して派手な変化ではないかもしれません。けれども確かに、「自分だけではない力が働いている」と気づかされる瞬間があります。それが、聖霊の働きです。聖霊は、私たちを外側から動かすのではなく、内側から静かに、しかし確かに変えていかれるのです。
そして三つ目に、「その力をどのように使えばよいのか」ということです。イエス様ははっきりと「あなたがたは力を受ける。そして、わたしの証人となる。」と言われました。ここで語られている力の目的は明確です。それは「証人となるための力」です。証人とは、難しいことを語る人ではありません。自分が見たこと、経験したことを、そのまま伝える人です。
つまり、聖霊の力は、自分を強く見せるためでも、成功するためでも、人より優れるためでもありません。神様が自分にしてくださったことを、自分の言葉で、自分の歩みで、伝えていくための力です。だからこそこの力は、特別な人だけのものではありません。むしろ弱さを知っている人にこそ、必要な力です。不安を抱えながらでもよいのです。言葉に詰まりながらでもよいのです。それでも、「神様が共にいてくださる」と信じて一歩踏み出すとき、聖霊はその歩みを支え、力を与えてくださいます。
私たちは、自分の力の限界をよく知っています。だからこそ、与えられる力が必要です。聖霊は、待ち望む者に与えられ、内側から私たちを変え、そして神様の愛を証しする歩みへと導いてくださいます。「あなたがたは力を受ける。」この約束は、弟子たちだけではなく、今ここにいる私たちにも向けられている言葉なのです。
復活されたイエス様は、本来であれば、そのまま地上にとどまり続ける事も出来たはずです。弟子たちと共に歩み続け、直接教え、導き続ける事も出来たでしょう。もしそうであれば、弟子たちはどれほど安心したことでしょうか。迷うことがあればすぐにイエス様に尋ねることができ、不安があれば、目に見えるイエス様の存在に支えられる事が出来たはずです。
しかしイエス様は、そうはなさいませんでした。むしろ、「あなたがたは力を受ける」と約束し、天に昇っていかれたのです。それはなぜでしょうか。それは、神様の働きが、もはや一つの場所や一人の姿に留まるものではなくなるためでした。
地上におられるイエス様は、確かに一つの場所におられる存在です。ガリラヤにおられれば、エルサレムにはおられません。目の前にいる人は直接出会えますが、離れた人は出会う事が出来ません。
しかし、聖霊として来られるとき、イエス様の臨在は制限を受けなくなります。一人ひとりの内に宿り、どこにいても共にいてくださる方となられるのです。つまり、イエス様が天に昇られたのは、私たちから離れるためではなく、むしろ、全ての人と共におられるためでした。
さらにもう一つ、大切な意味があります。それは、弟子たちが「受け身の信仰」から「遣わされる信仰」へと変えられるためです。もしイエス様が目に見える形でずっと共におられたなら、弟子たちはいつまでも「イエス様についていく人」にとどまっていたかもしれません。しかしイエス様は、「あなたがたは証人となる」と言われました。これは、「あなたがたが担い手となる」ということです。
つまり、これからは弟子たち自身が、イエス様の愛を伝える存在として立てられていくのです。そのためには、外から支えられるだけでは足りません。内側から支えられる必要があります。だからこそ、聖霊が与えられるのです。
そしてもう一つ、深く心に留めたいことがあります。それは、イエス様が昇天されたあと、弟子たちが天を見上げ続けていたとき、御使いが「なぜ天を見上げて立っているのか。」と語ったということです。これは、ただ空を見上げているのではなく、「これからの歩みへと向かいなさい」という促しの言葉でした。イエス様は確かに天に昇られました。しかしそれは終わりではなく、始まりです。聖霊を受けた弟子たちは、もはやその場にとどまるのではなく、それぞれの場所へと遣わされていきました。
ここに、私たちへの大切な招きがあります。私たちもまた、時に「天を見上げる」ような思いになります。神様、どうしてですか。どうしたらよいのですか。そう問いながら、その場に立ち止まってしまうことがあります。けれどもイエス様は「あなたがたは力を受ける。」と言われます。そしてその力は、立ち止まり続けるためではなく、一歩を踏み出すために与えられる力です。
復活されたイエス様が昇天されたのは、私たちを一人にするためではありません。むしろ、どこにいても共におられるために。私たちの内に働かれるために。そして、私たちを通して働かれるために。だからこそ、聖霊が与えられるのです。
「 あなたがたは力を受ける。」この言葉は、イエス様が天に昇られる直前に残された、最後の約束であり、同時に、これから始まる新しい歩みへの扉なのです。私たちは、その約束の中に生かされています。そして今もなお、聖霊は働き、私たち一人ひとりを通して、神様の御業を進めておられるのです。

