5月10日 主日礼拝 メッセージ

マタイによる福音書12章46-50節 「家族の愛」

 皆さんは、「あなたの家族は」と問いかけられると誰を思い浮かべられるでしょうか。今日の聖書箇所の中で、特に50節には、私たちが少し戸惑うようなイエス様の言葉があります。「天におられるわたしの父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである。」この言葉を聞くと、こんな疑問が浮かんでくるかもしれません。「では、血のつながった家族はどうなるのだろうか。」「神様を信じていない家族は、もう家族ではないのだろうか。」私たちにとって“家族”というのは、とても大切で、かけがえのない存在です。だからこそ、このイエス様の言葉は、どこか冷たく、厳しく感じられるかもしれません。

 実際、私たちは日々の生活の中で、家族の温かさに支えられています。嬉しい時に一緒に喜んでくれる人、つらいときにそっと寄り添ってくれる人。時にはぶつかり合いながらも、それでも離れることのない関係。それが家族です。血のつながりや、長い時間を共にしてきた積み重ねが、その関係を形づくっています。けれども同時に、こういう現実もあるのではないでしょうか。同じ家にいても、心が通じ合わないと感じるとき。大切に思っているのに、思いがすれ違ってしまうとき。「家族なのに、どうして分かり合えないのだろう」と、寂しさを覚えることもあります。

 そのような中で、イエス様は「神様の御心を行う人こそが、わたしの家族だ」と言われました。これは、今ある家族を否定する言葉なのでしょうか。それとも、まったく新しい家族の形を示しておられるのでしょうか。そしてもう一つ、私たちの心に残る問いがあります。もし、自分の家族が神様につながっていないと感じるとき、その人たちは「家族ではない」と考えなければならないのでしょうか。それは、あまりにも寂しく、受け入れがたいことのように思えます。イエス様はなぜ、「神様につながる人」を家族と呼ばれたのでしょうか。そこには、私たちがまだ十分に気づいていない、「本当の家族の姿」が示されているのかもしれません。

 この御言葉を通して、私たちが大切にしてきた家族の意味が壊されるのではなく、むしろ、より深く、より広く、神様の愛の中で捉え直されていく。そのような恵みとして、この言葉を受け取っていきたいと思います。

 イエス様は、「神様の御心を行う人が、わたしの家族である」と言われました。この言葉は、決して血のつながりを否定するためのものではありません。むしろ、「家族とは何か」ということを、より深いところから照らし出す言葉です。私たちは、家族というと、血のつながりや戸籍、共に暮らしてきた時間によって結ばれた関係を思い浮かべます。それは確かに尊く、大切なものです。神様も、そのような家族の関係を祝福しておられます。実際、聖書全体を通しても、親子の関係や家庭の営みは大切にされています。

 けれども、イエス様がここで語られたのは、「家族の中心に何があるのか」という問いです。血のつながりや形だけではなく、「神様とのつながり」が、その関係の中心にあるとき、人は本当の意味で互いに結ばれていくのだ、ということです。少し言い換えるならば、イエス様は「家族の範囲を狭めた」のではなく、「家族を広げられた」のです。当時の社会において、家族というのはとても強い結びつきであり、同時に閉じた関係でもありました。外の人は家族には入れません。しかしイエス様は、「神様の御心を行う人は誰でも家族だ」と言われたのです。そこには、血縁や背景、立場の違いを超えて、人と人とが結ばれていく、新しい関係が開かれています。ですから、この言葉は「血のつながりのある家族を切り捨てなさい」という命令ではありません。そうではなく、「神様に結ばれることによって、もっと広く、深い家族が与えられる」という招きなのです。

 では、「神様の御心を行う」とは、どのようなことでしょうか。それは、特別に立派なことをすることではありません。イエス様が語られた神様の御心とは、神様を愛し、そして隣人を愛することです。赦し合い、支え合い、共に生きていくことです。そのように生きるとき、私たちはただの「知り合い」ではなく、イエス様を通して「兄弟姉妹」と呼ばれる関係に招かれていきます。そこには、たとえ背景が違っていても、共に神様を見上げる者同士としての、深い結びつきが生まれます。

 ここで大切なのは、この新しい家族が、今ある家族を壊すものではないということです。むしろ、神様とのつながりは、私たちの現実の家族の関係をも、内側から支え、豊かにしていく力となります。たとえば、家族の中で意見が合わないとき、感情がぶつかるとき、私たちはつい「どうして分かってくれないのか」と思ってしまいます。しかし、その時に神様を見上げ、「自分も赦されている者だ」と気づくならば、相手に対する見方が少し変わっていきます。

 また、家族の中に神様を信じていない人がいる場合、「この人は家族ではないのか」という問いが出てきます。しかし、イエス様の言葉は、そのように線を引くためのものではありません。むしろ反対に、「その人もまた、神様に愛されている存在である」ということを、私たちに思い起こさせます。神様は、誰かが信じているから愛するのではなく、全ての人を先に愛しておられる方です。ですから、私たちの家族が神様に繋がっているかどうかによって、その人の価値や関係が変わるのではありません。むしろ、神様に繋がる者とされた私たちが、その家族の中で、どのように生きるかが問われているのです。優しさをもって接すること。赦しをもって向き合うこと。祈りの中で、その人を神様に委ねること。そうした一つ一つの歩みを通して、神様の愛は、私たちの家庭の中にも少しずつ広がっていきます。

  また、保育園では、みんなで一緒に神様の話を聞いたり、お祈りをしたりします。その時間を共にしている子どもたちや職員は、神様によって結ばれた「家族」のような存在でもあるでしょう。血がつながっていなくても、神様を見上げる心を一緒に持つとき、私たちはみんなイエス様を通して「仲間」として繋がっているのです。たとえば、誰かが困っているときに助けてあげること。悲しんでいるときにそっと寄り添うこと。一緒に喜び、一緒に祈ること。そうした一つ一つの姿は、神様の御心を行う歩みであり、その中で私たちは「家族」として生きているのです。ですから子どもたちにとっても、「ここにも家族がいる」という安心を感じながら過ごしてほしいと願います。そして大人である私たちもまた、そのような家族の一員として、子どもたちを温かく受けとめていきたいと思います。

 ここで、もう一度イエス様の言葉に立ち返りたいと思います。「神様の御心を行う人が、わたしの家族である。」この言葉は、「あなたはこの条件を満たしているか」と私たちを裁く言葉ではありません。むしろ、「あなたもこの家族に入ることができる」という招きの言葉です。私たちは完全に御心を行うことはできません。失敗もしますし、愛せないと感じることもあります。それでもなお、神様は私たちを見捨てず、「わたしの家族」と呼んでくださるのです。なぜなら、その家族の中心には、私たちの努力ではなく、神様の恵みがあるからです。そしてこの恵みは、私たちを通して広がっていきます。教会においても、またそれぞれの家庭においても、「神様につながる家族」は、少しずつ形づくられていきます。それは、完璧な人たちの集まりではありません。むしろ、不完全でありながら、それでも神様に支えられて共に歩む人たちの集まりです。

 ですから、もし今、家族のことで悩んでいる方がいるなら、あるいは「うまくいっていない」と感じているなら、その現実の中にこそ、神様は働いておられます。そして同時に、私たちはすでに、神様によって「家族」と呼ばれている者です。その確かな土台の上に立って、私たちはもう一度、自分の家族を見つめ直すことができるのです。血のつながりの家族も大切にしながら、神様によって広げられた家族の中で生きていく。その時、私たちの人生は、孤独ではなく、支え合いと希望に満ちたものへと変えられていきます。イエス様が示されたこの「新しい家族」は、私たちから何かを奪うものではありません。むしろ、私たちがすでに持っている関係を、より深く、より豊かにしていく、神様からの贈り物なのです。この恵みの中に、共に生かされていきたいと願います。