5月17日 主日礼拝 メッセージ
マルコによる福音書10章13-16節 「子どもを祝福」
来週のペンテコステ礼拝は、教会学校の子どもたちと大人が共に集う合同礼拝としてささげようとしています。皆さんは、この「合同礼拝」をどのように感じておられるでしょうか。にぎやかで嬉しいと感じる方もおられるでしょうし、いつもより落ち着かないと感じる方もおられるかもしれません。あるいは、「子どもたちにとって分かりやすい礼拝になるのは良いことだ」と思う一方で、「大人としてもう少し養えるような礼拝したい」という思いを抱くこともあるかもしれません。
実際、教会によってこの点の受け止め方はさまざまです。子どもと大人の礼拝をはっきり分け、大人の礼拝には子どもは入らないという形をとる教会もありますし、礼拝堂の様子が見えるようにガラス越しの部屋を設けて、共にいながらも配慮する教会もあります。また、親子で参加する礼拝と、大人だけの礼拝とを分けて行っている教会もあります。子どもの数が減っている中、それぞれの教会が規模や状況に応じて工夫しながら、「子どもたちがどのように礼拝に関わることができるか」を大切に考えているのです。
しかし、日本でも少し前まではそうでしたが、さらに時代をさかのぼり、マルコによる福音書が記しているイエス様の時代においては、基本的に「大人が中心」であり、子どもは後回しにされる存在でした。社会的にも、宗教的な場においても、子どもは重要な存在とは見なされていなかったのです。
その空気は、まさに今日の聖書箇所にも表れています。人々が子どもたちをイエス様のもとへ連れて来たとき、弟子たちはそれを叱りました。「今は大事な時だ」「子どもはふさわしくない」と、どこかで線を引いていたのでしょう。
けれども、そのときのイエス様の姿は、私たちの想像を超えるものでした。イエス様は子どもたちを遠ざけるのではなく、むしろ招き寄せ、「神の国はこのような者たちのものである」と語られたのです。
私たちは今日、この御言葉を前にして、改めて問われているのではないでしょうか。「礼拝とは誰のものなのか」「神様の前に集うとき、本当に大切にされるべき姿とは何か」と。イエス様が子どもたちに向けられたまなざしを、そしてそのまなざしが私たち一人ひとりにも向けられていることを、共に受け止めていきたいと思います。
マルコによる福音書10章13~16節の御言葉から、私たちは大切な問いへと導かれています。それは、「なぜイエス様は子どもたちを招き寄せられたのか」、そして「神の国はこのような者たちのものであるとは、どういう意味なのか」という問いです。
まず、この場面をもう一度心に思い描いてみましょう。人々が、子どもたちをイエス様のもとに連れてきました。「触れていただくために」とありますから、祝福をいただきたい、神様の恵みにあずからせたいという願いがあったのでしょう。ところが弟子たちは、それを叱りました。ここには当時の常識がよく表れています。子どもはまだ未熟で、重要な場にはふさわしくない、大人の話を妨げる存在だ、そのような見方です。
しかし、イエス様はその弟子たちの態度をご覧になって、憤られました。そして言われます。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」つまり子どもたちは、「来てもよい存在」なのではなく、「来るべき存在」なのです。
では、なぜイエス様は、そこまでして子どもたちを招かれたのでしょうか。「神の国はこのような者たちのものである。」ここでイエス様が見ておられるのは、「子どものようなあり方」です。守られていることを受け入れ、差し出されたものをそのまま受け取り、信頼して身をゆだねる姿です。
ここで、私は身近な光景を思い起こすことができます。保育園の職員は、朝に園児が来た時に手を広げたり、手をタッチしたりして受け入れています。泣いている子を抱っこして安心させています。その姿は、イエス様が子どもたちを受け入れている姿に重なるなと感じます。
子どもたちは、その腕の中で安心し、「ここにいていいんだ」と感じます。何かが出来るからではなく、ただ受け入れられることで、心が落ち着いていくのです。イエス様も同じように、子どもたちを抱き上げ、祝福されました。「あなたはここにいてよい」と、その存在そのものを受け止めてくださったのです。
しかしここで、もう一つ大切なことがあります。子どもたちを受け入れるということは、好き勝手にさせることとは違います。礼拝は神様の前に共に立つ大切な時です。だからこそ大人は、「今は神様のお話を聞く時間だよ」という思いを持ち、子どもたちが礼拝に向かえるように導いていくことが大切です。叱りつけるのではなく、共に礼拝する仲間として寄り添いながら、その場にふさわしい姿へと導いていく関わりが求められているのです。
受け入れることと、導くことは、対立するものではなく、共にあるものです。愛をもって受け入れられた子どもは、安心してその場にとどまり、少しずつ礼拝する姿へと導かれていきます。
また、私たちは、自分自身の姿を振り返らされます。私たちは、いつの間にか「大人」になりました。物事を理解し、判断し、自分の力で生きていこうとします。それ自体は大切なことです。
けれども同時に、神様の前に立つときにも、「自分はどうか」「ふさわしいか」「ちゃんとしているか」と考えてしまうのではないでしょうか。信仰においてさえ、「これだけ祈れている」「これだけできている」と、自分の側に基準を置いてしまう。あるいは逆に、「自分はまだ足りないから」「こんな自分は神様の前に出られない」と距離を置いてしまうこともあります。
しかしイエス様は言われます。神の国は、「受け取るもの」だと。子どもがそうであるように、差し出された恵みを、そのまま受け取る。それが神の国に生きるということなのです。
さらにイエス様は続けて言われました。「神の国を子どものように受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」ここには強い言葉があります。「決して入ることはできない」。それは、子どもでなければならないという意味ではありません。そうではなく、「子どものように受け入れる」ことがなければならないということです。
神の国は、努力して勝ち取るものではなく、資格によって与えられるものでもなく、ただ神様からの恵みとして与えられるものです。からこそ、それを受け取るには、へりくだって、信頼して、手を開く必要があるのです。
さて、私たちはここで改めて問われます。「礼拝とは誰のものなのか。」礼拝は、整った人のためのものではありません。静かにできる人、よく分かっている人だけのものでもありません。神様が招いてくださる場であり、全ての人に開かれている場です。だからこそ、子どもたちもまた、その大切な一員なのです。
そしてもう一つ、「神様の前に集うとき、本当に大切にされるべき姿とは何か。」それは、子どものように受け取る姿です。自分の力ではなく、神様の恵みに信頼して立つこと。
来週のペンテコステ礼拝では、子どもたちと大人が共に集います。その時私たちは、ただ「子どもをどうするか」を考えるのではなく、自分自身もまた、「神様の前に立つ一人の子ども」として招かれていることを覚えたいのです。
イエス様に抱き上げられ、祝福される存在として。どうかこの礼拝の中で、私たち一人ひとりが、子どものように心を開き、神様の恵みを受け取ることができますように。その時、神の国は、すでに私たちのただ中にあることを知ることができるのです。

