4月26日 主日礼拝 メッセージ
ルカによる福音書24章36-43節 「シャローム」
先ほど、讃美歌21の「やすかれ、わがこころよ」を歌いました。この「やすかれ」という言葉は、ただ「落ち着きましょう」という意味だけではありません。聖書の言葉で言うと、「シャローム」という言葉に近いものがあります。「シャローム」は、ただ静かな状態というよりも、神様が共にいてくださることで、心が守られている状態、安心して「ここにいてよい」と思えるような、深い平和のことです。私たちは普段、不安になったり、心配したり、落ち着かなくなったりします。今日ここに来られた皆さんも、それぞれにいろいろな思いを抱えておられることと思います。そんな私たちに向かって、先ほどの讃美歌は「やすかれ、わがこころよ」と語りかけていました。
そして実は、同じことをイエス様ご自身も語っておられます。復活されたイエス様は弟子たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われました。この「平和」こそ、「シャローム」であり「やすかれ」です。では、その平和とはどのようなものなのでしょうか。このとき弟子たちは、不安の中にいました。悲しみ、恐れ、後悔がら心は落ち着かず、戸を閉めて身を守っていました。そのただ中に、イエス様は来てくださり、「あなたがたに平和があるように」と語られました。
ここで大切なのは、この平和が「何も問題がないこと」ではない、ということです。恐れがあるままで、悲しみがあるままで、それでもなお、「あなたは一人ではない」と神様が共にいてくださること。それがシャロームです。
このシャロームを思うとき、私たちは今の世界の現実を避けて通ることはできません。世界の中では、今も戦争が起こっています。多くの命が失われ、人々が傷つき、悲しみが広がっています。そのような現実の中で、私たちは「なぜ戦争が起こるのか」「神様はおられるのか」と問いを持ちます。聖書は、この問いに対して簡単な答えを与えてはいません。しかし、はっきりと示していることがあります。それは、戦争や争いは、神様の願いではないということです。むしろ聖書は、人の中にある恐れや不安、自分を守ろうとする思い、相手を受け入れられない心が、争いを生み出していくと語ります。つまり戦争は、遠い世界の出来事であると同時に、私たちの心ともつながっているのです。
だからこそ、キリスト教の平和・シャロームは、ただ「戦争がなくなること」を願うだけでは終わりません。もっと深いところで、人の心が神様と結び直され、人と人との関係が回復されていくことを目指します。イエス様は、そのために来てくださいました。争いのない世界に来られたのではなく、争いのただ中に来られ、十字架にかかり、苦しみを受けられました。そして復活された主は、恐れている弟子たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように。」と言われたのです。
それは、「すべて解決した」という宣言ではありません。しかし、「この現実の中でも、神様はあなたと共にいる」という約束です。神様は遠くから見ておられるのではなく、苦しむ人と共におられ、涙を共に流しておられるお方です。だから私たちは、世界の現実に心を痛めながらも、「神様はいない」とあきらめるのではなく、「この世界の中でも、なお神様は働いておられる」と信じるのです。
そしてそのとき、私たちは問われます。自分の心の中にある小さな争いに、どう向き合うのか。 怒りや、赦せない思い、相手を遠ざけてしまう心の中に、主は静かに「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくださいます。シャロームは、遠い理想ではなく、まず私たちの心から始まるのです。
本日、礼拝後に庭のザクロに木を伐採します。聖書の中でザクロは、豊かな実りや祝福のしるしとして語られています。たとえば旧約聖書の申命記8章には、神様が与えてくださる良い土地の実りとして、「ざくろ」が挙げられています。つまりザクロは、古くから「生活を支える豊かさ」や「祝福された実り」を表すものとして大切にされてきました。
日本ではザクロは平安時代に中国から伝えられたと言われています。私たちにとっては、長い歴史の中で親しまれてきた木ですが、聖書の世界では、それよりもはるか昔から、人々の生活と深く結びついた大切な実りでした。そのような意味を持つザクロだからこそ、今でも色々な教会の庭などで大切に育てられていることも多くあります。実りの喜びと、神様の祝福を思い起こさせてくれる存在だからです。
庭の木もまた、そのような恵みのしるしとして、長い間、私たちに実りを与えてくれました。その木は今、役目を終えようとしています。けれども、私たちはもう一つの出来事を覚えています。昨年、その枝を分けて、新しく植えた木です。まだ細く、小さな木です。けれども、すでに少し実をつけ始めています。この姿は、私たちに大切な希望を語っています。
大きなものが終わるとき、すべてが終わるのではない。小さな形で、新しい命が始まっている。それは目立たないかもしれません。弱く見えるかもしれません。けれどもそこに、確かな命があります。それは、この世界における平和のあり方にも似ています。
大きな争いはすぐにはなくならないかもしれません。現実は簡単には変わらないかもしれません。けれどもその中で、小さな平和のしるしは確かに生まれています。誰かが誰かを助けること。傷ついた人に寄り添うこと。赦そうとする小さな一歩。それらは、ザクロの小さな木のように、これからの実りを宿した命です。
私たちもまた、そのような存在として生きるように招かれています。大きなことはできないかもしれません。けれども、目の前の人にやさしくすること、言葉を大切にすること、赦すことを選ぶこと。その一つ一つが、シャロームをこの世界に表していきます。
イエス様は、今日も私たちに「あなたがたに平和があるように。」と語っておられます。そのシャロームは、私たちの中に与えられ、そして私たちを通して、少しずつ広がっていきます。
今日、私たちはザクロの大きな木と別れます。けれども同時に、小さな新しい木が、すでに実を結び始めています。終わりの中に、すでに始まりが置かれています。このあと歌う讃美歌にあるように、球根の中に花が備えられているように、まだ見えない中に、すでに新しい命が宿されています。
どうか、これまでの恵みに感謝しながら、これから芽生えていくものにも目を向けていきましょう。そしてこの世界の中で、シャロームを受け取り、シャロームを生きる者として歩んでいきたいと思います。主は今日も、私たちに語っておられます。
「あなたがたに平和があるように。」

