3月29日 主日礼拝 メッセージ
ルカによる福音書22章14-20節 「共にいたい」
2025年度もあと数日となり、水曜日からは新年度を迎えようとしています。ひとつの区切りに立つとき、人は、自分のしてきたこと、出来なかったことを思い返さずにはいられません。良くできたと思えることもあれば、「あの時こうできたのではないか」と思うこともあります。喜びと共に、どこかに悔いも残る。それが私たちの現実ではないでしょうか。年度末を終え、新年度を迎える切り替えの時を過ごしていますが、キリスト教の暦では、イエス様の十字架への道を覚える受難週を迎えています。十字架への苦しみから来週むかえる復活への希望を感じる期間を過ごしています。
今日与えられているのは、ルカによる福音書22章14節から20節、「最後の晩餐」と呼ばれる場面です。この箇所を読むとき、私たちは「聖餐式の始まり」として理解することが多いと思います。それは確かに大切なことです。しかし今日は、その前にまず、イエス様がどのような思いでこの食卓を整えられたのか、そこに耳を傾けたいのです。イエス様は、この食卓に向かう前から、すべてをご存じでした。誰が裏切るかも、誰が逃げるかも、誰が「知らない」と言ってしまうかも。弟子たちの弱さも、揺らぎも、これから起こる失敗も、すべてを知っておられました。それでもなお、イエス様は弟子たちを遠ざけることなく、むしろご自身から食卓を整え、彼らを招かれました。そして、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」と言われたのです。
ここに、イエス様の思いがはっきりと現れています。「共にいたい」それが、イエス様の願いでした。弟子たちが立派だったからではありません。 しろ、この後つまずくことを知りながら、それでもなお「共にいたい」と願われたのです。このイエス様のまなざしは、私たちにとってもとても大切です。私たちはつい、「ちゃんとできているか」「ふさわしいかどうか」で自分を見てしまいます。そして、出来ていない自分を見ると、「神様から遠いのではないか」と感じてしまうことがあります。けれどもイエス様は、そのような基準で私たちをご覧になる方ではありません。弱さも、揺らぎも、すべてをご存じのうえで、それでもなお「共にいたい」と願ってくださる方です。
年度の終わりに立つ私たちもまた、そのまなざしの中に置かれています。そしてイエス様は、その思いを、パンと杯という形にして弟子たちに託されました。イエス様はパンを取り、祝福し、それを裂いて言われました。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしの体である。」また杯については「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」と言われました。パンが体であり、杯が血である。この言葉は、初めて聞くと驚く表現かもしれません。けれどもこれは、深い意味を持つ「しるし」です。
まず、パンについてです。パンは、命を支える食べ物です。当時の人々にとって、パンは日々の命そのものでした。イエス様が「これはわたしの体である」と言われた時、「わたし自身が、あなたの命を支える」「わたし自身を、あなたのために与える」と語っておられるのです。つまり、パンを受けるとは、イエス様の命を受け取ること、主ご自身を受け入れることを意味しています。
次に杯です。聖書において「血」は命を意味します。そして同時に、「契約」、つまり関係を結ぶしるしでもあります。イエス様が言われたのは「わたしは、あなたと新しい関係を結ぶ」「それは、わたしの愛によって結ばれる関係である」ということです。杯を受けるとは、その関係の中に生きることを受け取ることなのです。
ここで大切なのは、これらが「私たちが何かをすること」ではないという点です。むしろ逆です。イエス様の側から、「あなたのために」と差し出されているものです。ですから、パンをいただくとは、「私は主によって生かされる」と受け取ることです。杯を飲むとは、「私は主の愛の関係の中に生きる」と受け取ることです。それは、決意というよりも、「恵みを受ける」ことなのです。
そしてここで、もう一つ、とても大切なことがあります。このパンと杯は、この後に起こる出来事、十字架と深く結びついています。イエス様は、この食卓のすぐ後に、十字架へと向かわれます。十字架の上で、主の体は裂かれ、血が流されます。つまり、最後の晩餐の夜に語られたことは、実際に起こる出来事を指し示していたのです。「あなたがたのために与えられる体」「あなたがたのために流される血」その言葉の通りに、イエス様はご自身を与えられました。
では、なぜそこまでされたのでしょうか。聖書が語るのは、こうです。本来、人は神と共に生きる存在でした。しかし私たちは、自分中心に生き、神との関係が壊れてしまいました。その結果、神との間に断絶が生まれたのです。けれどもイエス様は、その断絶をそのままにされませんでした。ご自身が、その間に立たれたのです。本来なら私たちが負うべきものを、イエス様が引き受けられました。それが十字架です。ですから十字架は、ただの苦しみではありません。「あなたのためである」という出来事です。「あなたが神と共に生きることができるように」そのために、イエス様はご自身を与えられました。だからこそ、パンと杯は、ただの象徴ではありません。それは、「どれほどの愛が注がれたか」を示すしるしです。パンを見るとき、「ここまでして、私のために与えられたのだ」と知るのです。杯を見るとき、「ここまでして、私との関係を回復してくださったのだ」と知るのです。
そして、この食卓はここで終わりではありません。イエス様は「わたしの記念として、このように行いなさい。」と言われました。この食卓は、未来へと開かれているのです。実際に、弟子たちは後になって、この意味を知ることになります。十字架を前にイエス様は、どのような思いでこの食卓を始められたのか。それは、「共にいたい」という願いでした。そしてその願いは、十字架を通り、復活を通り、今も続いています。私たちがどのような歩みをしてきたとしても、イエス様はそれを知ったうえで、なお「あなたと共にいたい」と言われます。だから恐れなくてよいのです。
私たちは、神から遠いままで終わるのではありません。イエス様がその間に立ってくださったからです。年度の終わりに立つこの時、私たちは自分の歩みのすべてを、このイエス様のまなざしの中に置きたいと思います。そして来週、聖餐式でパンと杯にあずかるとき、思い出したいのです。十字架にかけられる前の夜、イエス様がどのような思いで命を差し出されたのかを。そして知りたいのです。今も変わらず、その同じ思いで、私たちと共にいてくださるということを。このイエス様の恵みの中で、希望をもって新しい歩みへと備えていきたいと思います。

