3月15日 主日礼拝 メッセージ

使徒言行録6章1-7節  「神に仕える教会」

 皆さんは、「教会とは何だろう」と考えたことがあるでしょうか。聖書は、教会を建物としてではなく、人の集まりとして語ります。神様に呼び集められた人々の群れ、それが教会です。ですから教会には、様々な人がいます。年齢も違います。経験も違います。考え方も違います。けれどもその人たちが、同じ主イエス・キリストを見上げて集まる。そこに教会があります。

 先ほど讃美歌21の390番「主は教会の基となり御言葉もてこれをきよめ」と歌いました。教会の土台は人ではありません。牧師でもありません。役員でもありません。イエス・キリストです。そのキリストが、十字架の道を歩んでおられる受難節を今歩んでいます。イエス様は力で人を従わせるためではなく、自分を献げるため十字架へ向かって歩まれました。教会はその主に結ばれた群れです。ですから教会の働きも、支配ではなく、仕える働きです。上に立つことではなく、互いに仕え合うことです。その姿が、今日の聖書に現れています。

 

 今日の聖書箇所は、教会がまだ始まったばかりの頃の出来事です。弟子たちの数が増え、教会は広がっていきました。聖書は「弟子の数が増えていくにつれて…苦情がでた。」と語ります。やもめたちが、「日々の分配において軽んじられていた」ため、弱い人が後回しにされたのです。教会も人の集まりですから、問題が起こります。考え方の違いが生まれることもあります。思いが行き届かないこともあります。しかし聖書は、そこで大切なことを示しています。問題が起こったとき、教会は神様の前に立ち返るということです。

 そこで、使徒たちは教会に「あなたがたの中から、を七人選びなさい。」言いました。ここから、教会の役割の立て方が見えてきます。ここでまず大切なのは、「あなたがたの中から」という言葉です。外から連れてくるのではありません。神様はすでに教会の中に必要な人を備えておられる、という信頼です。神様は教会を造られるとき、ただ人を集めるだけではなく、それぞれに賜物を与えておられます。ある人には祈る賜物。ある人には支える賜物。ある人には人をまとめる賜物。ある人には静かに仕える賜物。教会はその賜物を見出していきます。ですから教会の役員とは、人間が作る役職ではなく、神様が与えてくださっている賜物を教会が見出す働きなのです。

 そして条件は「霊と知恵に満ちた評判の良い人」でした。能力ではありません。経験でもありません。まず 信頼されている人、そして 聖霊に満たされている人です。聖霊に満たされているとは、神様の思いに心を向けている人です。自分の意見だけで動くのではなく、神様の導きを求める人です。教会はそのような人を見出します。つまり、教会は役員を「作る」のではなく、神様が与えてくださっている賜物を「見出す」のです。ここに教会の選び方の特徴があります。

 では選ばれた人は、どのような心でその務めに立つのでしょうか。使徒たちは「彼らにこの仕事を任せよう。」と言いました。ここで「仕事」と訳されている言葉は、もともと 奉仕 を意味する言葉です。つまり役割とは、上に立つことではありません。仕えることです。これは十字架の道を歩まれるイエス様の姿と同じです。イエス様は「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来た。」言われました。十字架の道は、仕える道でした。

 教会の務めも同じです。教会の働きというのは、目立つものばかりではありません。礼拝の準備をする人がいます。会計を支える人がいます。教会の歩みを整えるために話し合う人がいます。教会の様々な必要に心を配る人がいます。そうした働きがあるからこそ、私たちは安心して礼拝を守ることができます。

もし誰もそれを担わなければ、教会の働きは成り立ちません。礼拝も、教会の活動も、誰かが担っているから続いているのです。その働きには感謝しかありません。

 役員の働きは、決して目立つ働きばかりではありません。むしろ見えないところで、教会の歩みを整える働きです。時には悩むこともあります。どうしたらよいか迷うこともあります。それでも教会のために祈り、教会のために心を用いてくださる。その働きはとても尊いものです。しかし聖書をよく見ると、働くのは七人だけではありません。5節には「一同はこの提案に賛成し」とあります。教会全体が関わりました。そして6節「使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。」と続きます。ここがとても大切です。教会の務めは、一人で背負うものではありません。祈りによって支えられるものです。役員の働きは、教会の祈りの上に立っています。ですから役員以外の人は、何もしなくてよいわけではありません。祈りで支える。理解をもって支える。共に教会を担う。それが聖書の教会です。

 ここでもう一度、今日の中心の言葉「霊と知恵に満ちた評判の良い人」に戻ります。聖霊に満ちるとは、自分の思いでいっぱいになることではありません。キリストの思いに満たされることです。そのキリストは、十字架への道を歩まれました。仕える愛。赦す愛。献げる愛。教会がこの愛に満たされるとき、教会の働きは重荷ではなくなります。恵みになります。最後に聖書は「こうして、神の言葉はますます広まり…」と語ります。教会が神の導きに従ったとき、神ご自身が働かれました。教会の基はキリストです。その主に満たされるとき、教会は整えられていきます。選ぶ人も、選ばれる人も、支える人も、すべてが神の恵みの中にあります。

 このあと私たちは、讃美歌512番「主よ献げます」を歌います。この歌は、ただの歌ではありません。信仰の祈りです。「主よ、私を献げます」「私の手足、私の声を、私の愛を」献げます。教会とは、この祈りを歌いながら歩む群れです。役員として働く人も、祈りで支える人も、共に礼拝を守る人も、みなこの祈りを歌いながら歩みます。そして「みむねのままに用いください。」と歌います。そのとき神様は、この教会を支えてくださいます。そして神様の言葉は、今日の聖書が語るように、これからも広がっていきます。その恵みに信頼しながら、私たちはこの歌を歌いたいと思います。