3月8日 主日礼拝 メッセージ

ペトロの手紙4章7-11節  「神様からの贈り物」

 少し、こんなことを想像してみていただきたいのです。ある日、あなたのもとに小さな箱が届きます。送り主は書かれていません。ただ一言、「あなたへ」と書かれています。開けてみると、中には一つの贈り物が入っています。とても大切なもののようです。けれども説明書はありません。ただ、その贈り物だけがそこにある。さて、そのとき私たちはどうするでしょうか。大切そうだから、箱に戻してしまうでしょうか。それとも、思い切って使ってみるでしょうか。

 実は聖書は、今日の御言葉の中で、私たちにとてもよく似たことを語っています。私たちは、この世に生まれてきました。そして気がつくと、すでに性格、能力、経験、人との出会い等々いろいろなものを持っています。そして人によって、それはみな違っています。ある人は人前で話すことが得意です。ある人は静かに支えることが得意です。ある人は人の気持ちを敏感に感じ取ることができます。

 聖書は、「あなたがたはそれぞれ賜物を授かっているのです。」と言います。ここで使われている「賜物」という言葉は、もともと「恵みから生まれた贈り物」という意味を持っています。つまり聖書は、「あなたが持っているものは、神様からの贈り物である」と言っているのです。それは、自分で作り出したものではありません。もちろん努力もあるでしょう。経験もあるでしょう。けれども、その根っこには、神様の恵みがあると聖書は語ります。しかも、ここには「それぞれ」と書かれています。つまり、例外なく一人ひとりにです。神様は、「あなたにはこれを」「あなたにはこれを」と、思いを込めて与えておられるのです。しかし、ここで私たちは一つの問いに向き合う必要があります。それは、その贈り物をどうしているかということです。

 聖書は「神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」と続けてこう言います。ここに、賜物の目的が書かれています。それは、互いに仕えるためです。賜物は、自分が輝くためではありません。自分を誇るためでもありません。神様の贈り物を、人のために用いるためです。しかし、賜物を用いることは、決して簡単なことではありません。むしろ、そこにはうまくいかないこともあります。よかれと思って言った言葉が、相手を傷つけてしまうことがあります。励まそうと思ったのに、かえって相手を追い詰めてしまうこともあります。一生懸命仕えたつもりなのに、理解されないこともあります。あるいは、自分の賜物を用いる中で、知らないうちに人を傷つけてしまうこともあります。

 教会の歴史の中でも、そのようなことはたくさんありました。熱心さが、人を裁く言葉になってしまうこと。正しさが、人を傷つける刃になってしまうこと。賜物は神様からのものです。しかし、それを用いる私たちは、完全ではありません。だから、賜物を用いるところには、必ず上手くいかない事も起こります。

 では、そのとき私たちはどうしたらよいのでしょうか。聖書は、ここでとても大切な道を示しています。それは、赦しの中で賜物を用い続けることです。実は、今日の箇所で、ペトロは「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」と言っています。これは、とても大切な言葉です。

賜物を用いる教会は、必ず上手くいかない事を経験します。しかし、そのとき愛が罪を覆うのです。傷つけてしまったなら、謝る。傷つけられたなら、赦す。その繰り返しの中で、教会は歩んでいきます。私たちは完璧な人間の集まりではありません。むしろ、赦されながら生きている人々の群れです。だからこそ、賜物もまた、赦しの中で用いられていきます。

 オーケストラを想像してみてください。大きなホールで演奏が行われています。バイオリン、チェロ、フルート、トランペット、たくさんの楽器があります。ある人は目立つ場所で演奏しています。ある人は後ろのほうで演奏しています。しかし、そのどれもが大切です。以前、ある指揮者がこんな話をしていました。オーケストラの中で、一番難しいことの一つは「休むこと」だと言うのです。ある楽器は、何十小節も出番がありません。しかし、その人は何もしていないわけではありません。楽譜を見ています。指揮者を見ています。そして、自分の出番を待っています。そして、ある瞬間、たった一音をならす。その一音がなることで、音楽が完成するのです。もしその音がなかったら、音楽はどこか足りないものになります。教会も同じです。目立つ働きがあります。目立たない働きがあります。けれども、神様の目には、どちらも同じように大切です。

 そして時には、プロでも演奏を間違えることもあります。音を外すこともあります。しかし、そこで音楽が終わるわけではありません。指揮者は演奏を止めません。音楽は続いていきます。そして演奏者は、もう一度音楽の中に戻っていきます。実は、これも教会とよく似ています。私たちも、間違えることがあります。人を傷つけてしまうこともあります。けれども、神様はそこで人生を止めさせてしまわれる方ではありません。イエス・キリストによって、私たちは赦され、もう一度歩み直すことができます。

 だからこそ、ペトロは最後に「すべての事において、イエス・キリストを通して、神が栄光と力をお受けになるためです。」と語ります。ここが、今日の御言葉の頂点です。賜物は、私たちが誇るためではありません。神様の栄光があらわれるためです。そして、その中心におられるのがイエス・キリストです。私たちは完全ではありません。けれども、キリストが共にいてくださいます。私たちは上手くいかない事します。けれども、キリストが赦してくださいます。だから、恐れずに賜物を用いることができます。上手くいかない事を恐れて、箱にしまってしまう必要はありません。神様からいただいた贈り物を、感謝して受け取り、互いのために用い、赦しの中で歩み続ける。そこに、神様の栄光があらわれます。

 神様は、私たちにそれぞれにあった賜物という贈り物をくださいました。それは、人と比べるためのものではありません。人より上になるためのものでもありません。神様が、「あなたを通して働きたい」と思って与えてくださったものです。だから、恐れなくてよいのです。上手くいかない事してもよいのです。赦しがあるからです。神様からの贈り物を受け取り、それを互いのために用いるとき、イエス・キリストを通して、神の栄光があらわされます。その歩みへと、私たちは今日も招かれているのです。