3月1日 主日礼拝 メッセージ

箴言 17章17節  「友はどのような時にも」

 皆さんは、キリスト教の葬儀と仏式の葬儀と、どちらに多く出席されたことがあるでしょうか。私は牧師になってからはキリスト教の葬儀の方が多くなりましたが、牧師になる前は仏式の葬儀の方が多かったように思います。また、仏式とキリスト教式の葬儀の違いをどのように感じられているでしょうか。

 数年前、前任地の教会員の葬儀のあとで、キリスト教の葬儀にほとんど参加したことのないご親族の方から、二つの疑問を投げかけられました。まず「葬式で歌を歌うのですね。」と聞かれ、さらに「神様であるイエス様を“友”と呼ぶのですね。」と聞かれました。葬儀は礼拝として行い、その中で「いつくしみ深い」を歌いました。「いつくしみ深い友なるイエスは」と、悲しみのただ中で歌う。そのこと自体に、驚かれたのです。とても真面目な問いです。宗教というと、神や仏は高く、尊く、畏れるべき存在です。私たちは頭を下げ、祈り、願いをささげます。神を「友」と呼ぶなど軽すぎるのではないか。葬儀で歌うなど不謹慎ではないか。そのように感じられるのは自然なことです。

 聖書もまた神の聖さを語ります。モーセは履き物を脱ぎ、イザヤは「わたしは滅びる」と叫びました。神様は聖なるお方です。ではキリスト教はその神様を軽く扱っているのでしょうか。いいえ、そうではありません。神は神です。キリスト教の神は創造主であり、いのちの源であり、聖なるお方です。キリスト教は、決して神様を軽く扱っているわけではありません。

 ではなぜ、「友」と呼ぶのでしょうか。それは、人間が神様に近づいたからではありません。神様の方が、人間に近づいてくださったからです。神の御子イエス様は、人としてこの世に来られました。神様が遠くにいるのではなく、私たちの生活のただ中に来られた。そして空腹を覚え、疲れ、涙を流し、裏切られ、苦しみ、そして十字架で死なれました。つまり、神は「神のまま」遠くにおられたのではなく、「神でありながら」私たちの側に立たれたのです。ここにキリスト教の驚きがあります。

 今日の聖書箇所に「どのような時にも、友を愛すれば苦難の時の兄弟が生まれる」と友や兄弟という言葉が出てきます。ではイエス様は、神なのでしょうか友なのでしょうか兄弟なのでしょうか。答えは、神であり、友であり、兄弟でもある、です。まず、イエス様は神です。だからこそ、私たちは礼拝します。祈ります。救いを委ねます。もしイエス様が単なる人格者なら、尊敬はできても、救いを託すことはできません。死を越える力を持つのは神だけです。葬儀で讃美歌を歌うのは、イエス様が神であり、死を打ち破られた方だからです。しかしその神が、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」と言われました。これは驚くべき言葉です。友とは何でしょうか。今日の箴言は「どのような時にも、友を愛すれば」と語ります。友とは、条件でつながる関係ではありません。成功している時だけではない。立派な時だけでもない。失敗しても、弱くても、変わらず愛する。イエス様はまさにそうでした。弟子たちは逃げました。ペトロは三度「知らない」と言いました。それでもイエスは見捨てませんでした。どのような時にも愛する。これが「友」です。

 箴言はさらに「苦難の時の兄弟が生まれる。」と言います。兄弟とは、血のつながりを超えて、運命を共にする存在です。新約聖書では、イエス様を「多くの兄弟の中の長子」と呼びます。イエス様は私たちと同じ人間となり、苦しみを共にし、死を経験されました。外から励ますのではなく、内側に入って苦難を担われました。だからイエス様は、苦難の時のために来られた兄弟でもあるのです。

 私もそうですが、私たち大人は、イエス様は神なのか友なのか兄弟なのかと、どうしても整理したくなりませんか。区別し、説明し、順序立てて理解しようとします。それ自体は悪いことではありません。信仰を深く理解しようとする姿勢は大切です。けれども、私は時々、保育園の子どもたちの姿に教えられます。園で「イエスさまのこと、どう思う?」と聞くと、子どもたちは理屈を言いません。「イエスさま大好き!」そう言います。そこには神学的整理はありません。「神としてはこうで、友としてはこうで…」とは言いません。ただ「大すき」。けれども、その「大好き」の中には、実はすべてが含まれているのです。イエス様はすごいお方、守ってくれるお方、いつも一緒にいてくれるお方、困ったとき助けてくれるお方であると、子どもたちは、理屈を超えて受け取っています。イエス様が神であることも、友であることも、兄弟のようにそばにいてくれることも、全部ひっくるめて、「大好き」。

 大人は時に、「友と呼ぶのは軽いのではないか」と心配します。けれども子どもたちの「大好き」は、決して軽くありません。それは、信頼の言葉です。見てもらえていると知っている、見捨てられないと知っている、一緒にいてくれると知っている。だから「大好き」と言える。実はこれこそ、信仰の核心です。イエス様は「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコ10:15)と言われました。理屈を捨てるという意味ではありません。信頼して身を委ねる、という意味です。私たち大人は「イエス様は神か、友か、兄弟か」と考えます。しかし最後には、子どもたちのように「イエス様がいてくださるなら、大丈夫。」と言えればよいのかもしれません。

 悲しい時でも嬉しい時にも「いつくしみ深い友なるイエスは」と歌うのも、実は同じです。それは神学の確認ではありません。信頼の告白です。悲しみの中で、死の前で、それでも、「この方がいてくださる。」と子どものような信頼で歌うのです。

 

 今日の御言葉は「どのような時にも、友を愛すれば苦難の時の兄弟が生まれる」です。神様であるイエスは、友として愛し、兄弟として苦難を共にし、死を越えてなお共にいてくださいます。その方を、私たちは礼拝します。その方に、心を開きます。その方と、共に歩みます。

そして時に、子どもたちのように、ただ「イエス様、だいすきです。」と思えばよいのです。その単純で深い信頼が、私たちのこれからを支える力になります。悲しみの中でも、迷いの中でも、私たちは一人ではありません。この希望に支えられて、歩んでまいりましょう。