2月1日 主日礼拝 メッセージ
ヨハネによる福音書 15章9-12節 「愛にとどまる」
みなさんは、日々、どこに心をとどめて生きておられるでしょうか。私は、朝、目を覚ました瞬間から、今日しなければならない事が頭に思い浮かびます。まだ起きてもいない出来事を心配したり、昨日の失敗が頭から離れない時もあります。気がつくと、私たちの心は、安心とはほど遠い場所に留まっている事があるのです。
現代を生きる私たちは、とても忙しいです。体は休んでいても、心は休んでいない。家に帰っても、心は職場や人間関係の中に置き去りのままです。誰かと一緒にいても、どこか孤独を感じてしまうこともあります。それは、心が安心して帰る場所を見失っているからかもしれません。そしてそれは、信仰を持つ私たちも例外ではありません。祈っているのに、不安になる。御言葉を読んでいるのに、心が落ち着かない。「自分は、本当に神様を信じているのだろうか」と、そんな思いがよぎることもあるでしょう。でも、それは信仰が足りないからではありません。私たちが、弱さを持った人間だからです。
だからこそ今日の御言葉「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」は、私たちを責める言葉ではなく、疲れた心を迎え入れる招きの言葉として、響いてくるのです。この「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」の中に、私たちの信仰のすべてが、静かに、しかし確かに語られています。今日はこの「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」を、三つの言葉に分けて、一つ一つ、立ち止まりながら聴いていきたいと思います。
まず、最初の「父がわたしを愛されたように」です。
イエス様はここで、父なる神とご自身との関係を語っておられます。父と子。それは、永遠の昔から続く、揺らぐことのない愛の関係です。そこには、不安もありません。疑いもありません。条件もありません。イエス様が洗礼を受けられたとき、天から「これは、わたしの愛する子。わたしの心に適う者。」という神様の声が響きました。神様は、イエス様が何かを成し遂げたから愛されたのではありません。存在そのものを愛されていたのです。
しかし私たちは、そのような愛に、あまり慣れていません。できたら認められる。役に立てば価値がある。そのような期待に応えられなければ、距離を置かれる。そういう経験を重ねてきた私たちは、いつの間にか、神様の愛まで、同じように考えてしまいます。自分は「ちゃんとできていないから」「失敗したから」「信仰が弱いから」だから、神様から愛されないのではないか、と思ってしまいます。でもイエス様は、はっきりと語られます。父がわたしを愛した、その愛と同じ愛で、わたしはあなたを愛している。そのようにイエス様は、私たちを愛してくださっているのです。
次の「わたしもあなたがたを愛してきた」です。
ここで、ぜひ心に留めたいのは、この言葉が過去形で語られていることです。「愛している」ではなく、「愛してきた」です。イエス様の弟子たちは、決して立派な人たちではありませんでした。理解が遅く、何度も同 じことを尋ね、大切な場面で眠り込み、最後には、イエス様を置いて逃げていくのです。しかし、イエス様は「それでも、わたしはあなたを愛してきた」と言われるのです。イエス様の愛は、今の私たちの姿だけを見ているのではありません。過去の後悔も、失敗も、言えなかった言葉も、やり直したいと思う出来事も、すべてを含めて、「愛してきた」と言ってくださるのです。私たちは、良くなってから愛されるのではありません。愛されたからこそ、少しずつ変えられていくのです。イエス様にずっと前から愛されてきたからこそ、私たちは変えられて今があるのです。
そして、三つ目の「わたしの愛にとどまりなさい」です。
ここで使われている「とどまる」という言葉は、一時的に立ち寄る、という意味ではありません。住み続ける、離れない、帰る場所にするという意味を持つ言葉です。だからイエス様は「わたしの愛を、あなたの心の住みか、居場所にしなさい」と言われるのです。私たちは、イエス様の愛以外の場所に、すぐに留まってしまいます。不安の中に、比較の中に、「自分は足りない」という思いの中に留まってしまいます。だからイエス様は、責めるようにではなく、呼び戻すように、「そこじゃないあなたの居場所は、ここだ」と語られるのです。私たちには、イエス様という安心する居場所が与えられているのです。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」この9節は、このあとに続く全ての教えの、揺るがない土台です。この9節を忘れてしまうと、10節の「戒め」や、12節の「互いに愛し合いなさい」が、急に重たく聞こえてきます。「もっと頑張らなければ」「できない自分はだめなのではないか」と信仰が、安心の場所ではなく、評価される場所になってしまうのです。
でも、イエス様は順番を間違えられません。最初に語られるのは、命令ではなく、努力でもなく、「わたしは、あなたを愛してきた」という事実です。戒めは、愛を得るための条件ではありません。すでに与えられている愛の中に、迷わず生きるための道です。神様は、私たちが戒めを守れないことを、最初からご存じです。弟子たちは、何度も失敗しました。それでもイエス様は、「愛してきた」と言われます。失敗しても、私たちはイエス様の愛から落ちません。
今週から3週連続で「神様の愛」について考えていきます。今週は「神様の愛にとどまりなさい」です。「とどまりなさい」という言葉は、出来た人だけに許された場所ではありません。むしろ、つまずいた時、疲れた時に、戻ってくる場所です。信仰とは、強くあり続けることではありません。何度でも、この愛に戻ってくることです。だから、喜びがあるのです。この愛を土台にするとき、イエスの言葉が現実になります。喜びは、頑張ったご褒美ではありません。安心して、とどまれる場所があること。それ自体が、喜びなのです。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」が、私たちの信仰の土台です。だから、今まで色々なことがあってもいいのです。今、神様へ礼拝をして、神様、イエス様の愛にとどまっている。神様、イエス様のところを居場所となっている。それで、十分なのです。

