1月11日 主日礼拝 メッセージ
ルカによる福音書 15章11-24節 「父の喜び」
誰もが自分の人生と重ね合わせてこのたとえ話を読むことが出来る、そういう普遍性がある話です。特に、17節の「彼は我に返って」という所は、全てのキリスト者にとって、自分が神様の御前に悔い改めた「あの時」と重ね合うのではないかと思います。
あるいは、13~14節「何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。」とある所は、自分がイエス様の救いに与る前の姿と重なることでしょう。自分がやりたいようにやり、楽しみたいように楽しみ、それのどこが悪いのかと開き直っていた自分の姿です。
しかし、それが行き詰まってしまった。それではどうにもならない所にまで追い込まれてしまった。そして、神様に救いを求めた。そのようなイエス様と出会うまでの日々を思い起こすのです。私たちには、皆、そのような自分が神様に救われるに至るまでの歩みがあります。どれ一つとして同じ話はありません。誰の歩みであってもこの放蕩息子の話と重なるのではないでしょうか。私は、この放蕩息子のたとえ話の正しい一つの読み方、聴き方は、ここにあるのだと思っています。自分とこの放蕩息子を重ねるということです。
今回は、このたとえ話のもう一つのポイントである、父なる神様に焦点を絞り話していきたいと思います。このたとえ話において不思議なのは、どうしてこの父親は、弟息子に財産を分けてしまったのか。そして、自分の家から出て行くことを許してしまったのかということです。あまりにも甘やかし過ぎなのではないか。そうはお思いにならないでしょうか。世の中を知らない若者にお金だけやって、家から出せば、ロクなことにならないことぐらい判りそうなものです。だったら、この父はいったい何をしようとしたのでしょうか。この父親の行動は何を意味しているのでしょうか。それは、父なる神様の「自由な愛」を示しているのだと思います。
神様は私たちを御自身に似た者としてお造りになられました。まことに神様との自由な愛の交わりに生きることが出来るものとして造って下さったのです。愛は自由でなければなりません。相手を縛りつけて、自分に逆らうことが出来ないようにしておいて、自分の言いなりにさせて、これが愛だなどということは言えないでしょう。ここで甘い父親は、弟息子に財産を分けましたけれど、その富を与えられても弟息子が自分と一緒に生きることを、求め、望んでいたに違いないのです。自由に、弟息子が自分との愛の交わりのなかに生きることを望み、期待したのでしょう。この世の常識では、この放蕩息子の父親のしたことは愚かであり、甘すぎるということになるのだと思います。しかし、「愚かだ。」「甘すぎる。」と言われようと、天の父なる神様が私たちに対して為しておられることは、こういうことなのです。
私たち人間に対して、神様はあり余る富を、能力を与えられたのです。理性を与え、言葉を与え、文化を与え、豊かな情緒を与えた。私たちは当たり前と思っているかもしれませんが、これは本当に大きな、人間だけに与えられた神様からのプレゼントなのです。更に神様は、それらの力を自由に用いて良い自由をも私たちに与えられたのです。神様は人間がそれらの能力の全てを用いて、御自身との間の自由な愛の交わりを形作っていくことを望まれたのです。
しかし、人間はそうしなかった。神様を離れ、神様との関係を崩してしまったのです。それが、13節にある「遠い国に旅立ち」ということです。自分の力で、神様なしでやっていける。自分には力もあり、能力もある。そう思ってやってきた。神様を忘れた人間は、神様に似た者として造られた姿を失い、罪の奴隷となってしまった。そして、そこには本当の自由もなく、食べるにもこと欠く、惨めな状態だけが残ったのです。本当にそこまで追いつめられなければ、気が付かない、目が覚めない。それが私たちなのでしょう。自分の力で何とか出来ると思っている限り、神様など求めない。それが私たちなのです。
この状態は、個人の人生における困難と見ることも出来ますが、もっと広く、人類が現在抱えている困難と見ることも出来るでしょう。戦争、核の問題、貧富の格差、自然破壊等様々な問題。その根本に何があるのか。それが自分中心となる罪なのです。ここで、私たちは我に返らなくてはならないのです。本来の自分を取り戻さなければならないのです。
その為には、どうしなければならないのか。自分達を造って下さった父なる神様のもとに立ち帰るのです。弟息子は、18~19節「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。」こう心に決めて、父のもとに帰りました。20節には「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」とあります。ここに、父なる神様の、私たちに対しての思いが良く言い表されています。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけ」というのは、父がこの放蕩の限りを尽くし、身を持ち崩した息子の帰りを待っていたということを示しています。
これは、私たちが神様のもとに立ち帰った時と同じです。イエス様の十字架の故に、父なる神様は私たちに何も求めず、私たちの一切の罪を赦し、神の子としての身分を与え、永遠の命を与えて下さったのです。しかしここで、聖書は弟息子の喜びには一切触れていないのです。父の喜びだけが記されています。私たちは、このことをちゃんと読まなければなりません。つまり、私たちが悔い改め、神様の子とされた喜び。それは、まことに大きな喜びであるに違いありません。
しかし、その喜びとは比べものにならない程の大きな喜びを、父なる神様ご自身が味わわれたということなのです。「親の心、子知らず」という言葉があります。これは父なる神様と私たちの関係においても言えることなのでしょう。それだけ、私たちも神様に愛されているのです。
私達が放蕩息子のように神様から離れる期間は色々とあるかもしれません。もしかすると日曜日に教会を離れて、次に教会に来るまでの間も神様からすると放蕩息子のように待っておられるのかもしれません。そう思うと、こうして礼拝に戻ってきている事を神様は、すごく喜んでくださっていることでしょう。そう思っていただけることに感謝しながらこれからも共に歩んでいきましょう。

