5月31日 主日礼拝 メッセージ
ヨハネによる福音書15章1-5節 「幹に繋がる」
皆さんは、木や植物を育てたことがあるでしょうか。毎日水をあげても、なかなか花が咲かなかったり、実がならなかったりすることがあります。反対に、太陽の光を受け、しっかり根を張っている植物は、季節になるときれいな花を咲かせ、実を結びます。けれども、その実りを見ていると、「枝だけの力で実がなっているわけではない」ということに気づかされます。枝は、自分だけでは生きることができません。幹につながり、根から水や養分を受け取ることで、初めて実を結ぶことができます。
今日の聖書で、イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と語られました。つまり私たちは、自分一人の力だけで生きているのではなく、イエス様につながることで生かされている存在なのです。しかし、ここで私たちは考えたくなります。では、私たちはどのような枝になればよいのでしょうか。太い枝でしょうか。立派に見える枝でしょうか。それとも、たくさんの実をつける枝でしょうか。また、イエス様が言われる「実を結ぶ」とは、いったい何を意味しているのでしょうか。勉強ができることなのでしょうか。人より優れていることなのでしょうか。それとも、もっと別の大切な実りがあるのでしょうか。今日の聖書を通して、イエス様に繋がって生きるとはどういうことなのか。そして、神様が私たちに願っておられる「実り」とは何なのかをご一緒に聞いていきたいと思います。
先ほど、植物や木の話をしました。枝は、自分だけでは生きることができません。幹につながり、根から水や養分を受けることで、初めて花を咲かせ、実を結ぶことができます。イエス様は、その姿を用いて、私たちの信仰について語られました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」この言葉は、とても優しく聞こえる言葉ですが、同時に、私たちの生き方の中心を問いかける言葉でもあります。私たちは、普段、「自分の力で頑張らなければならない」と思って生きています。勉強も、仕事も、人間関係も、自分で何とかしようとします。もちろん努力することは大切です。けれども、頑張っても頑張っても疲れてしまうことがあります。うまくいかない時、自分には価値がないように感じてしまうこともあります。また、人と比べて、「あの人は立派なのに、自分はだめだ」と思ってしまうこともあります。
しかしイエス様は、「あなたがたは、自分一人で生きているのではない」と語られるのです。枝が木につながっているように、あなたも私につながって生きる存在なのだ、と。ここで大切なのは、イエス様が「あなたがたもぶどうの木になりなさい」とは言われなかったことです。「あなたがたは枝である」と言われました。つまり、私たちは木そのものにならなくていいのです。全部を背負わなくていい。自分一人で人生を完成させなくていい。イエス様に繋がる枝として生きればよいのです。私たちは時々、「立派な枝にならなければ」と思います。太くて強く、人から褒められる枝。たくさんの実をつける枝。折れない枝。けれども、イエス様が求めておられるのは、「強そうに見える枝」ではありません。「つながっている枝」です。どんなに細くても、弱くても、傷ついていても、木につながっている枝には命が流れています。
逆に、どんなに立派に見えても、木から離れてしまった枝は、やがて枯れていきます。私たちの信仰生活も同じなのです。忙しさの中で祈ることを忘れ、神様の言葉を聞かなくなり、「自分の力だけで大丈夫」と思い始める時、私たちの心は少しずつ乾いていきます。すると、喜びがなくなり、感謝が減り、人を愛する余裕も失われていきます。反対に、イエス様につながる時、私たちは少しずつ変えられていきます。毎日の祈りの中で、礼拝の中で、聖書の言葉を聞く中で、私たちは神様から命を受け取っているのです。
では、イエス様が言われる「実を結ぶ」とは何でしょうか。多くの人は、「成果を出すこと」だと思うかもしれません。何か大きなことを成し遂げること。人より優れていること。成功すること。けれども、聖書の語る実りは、それだけではありません。むしろ神様が喜ばれる実りとは、愛することのできる心です。赦すことのできる心です。感謝する心です。平和を作り出す歩みです。悲しんでいる人に寄り添えること。弱っている人に優しい言葉をかけられること。「ありがとう」と言えること。「ごめんなさい」が言えること。そういう実りを、神様は大切にしておられます。
そして、その実は、自分の力だけでは結ぶことができません。ぶどうの枝が、自分で無理に実を作ろうとしているわけではないように、私たちも「頑張って実を作る」のではありません。イエス様につながっている時に、自然に結ばれていくのです。赤ちゃんが成長するように、春になると花が咲くように、神様の命が私たちの中に流れる時、少しずつ実りが生まれていきます。もちろん、すぐには実が見えない時もあります。祈っても変わらないように感じることがあります。自分は成長していないと思うこともあります。
しかし、ぶどうの木も、毎日急に大きくなるわけではありません。見えないところで根を張り、養分を受け取り、少しずつ育っていきます。神様も、私たちの見えないところで働いておられます。失敗した経験も、涙を流した日々も、苦しかった出来事も、神様は無駄にはされません。時には、今日の聖書にあるように、「刈り込み」があることもあります。枝は、刈り込まれる時には痛みがあります。「なぜこんなことが起こるのか」と思うこともあります。けれども農夫は、枝をいじめるために切るのではありません。もっと豊かな実を結ぶために整えるのです。
神様も、私たちを見捨てておられるのではなく、もっと豊かに生きるために導いてくださることがあります。だから私たちは、うまくいく時だけでなく、苦しい時にも、「それでも神様につながっていたい」と願うのです。
そして最後に、イエス様はこう言われました。「わたしを離れては、あなたがたは何もできない。」この言葉は、厳しい言葉に聞こえるかもしれません。しかし、これは脅しではありません。むしろ、「あなたは一人で頑張らなくていい」という招きの言葉なのです。疲れた時も、失敗した時も、自信をなくした時も、「それでも、わたしにつながっていなさい」とイエス様は言ってくださいます。枝は、木にしがみついて生きます。私たちも、イエス様につながって生きるのです。その時、私たちは、自分でも気づかないうちに、神様の愛の実を結ぶ者へと変えられていきます。今日もイエス様は、私たち一人ひとりに語りかけておられます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」この言葉を胸に、イエス様につながる歩みを、共に続けていきたいと思います。

