2月15日 主日礼拝 メッセージ

エフェソの信徒への手紙 5章1-5節  「愛によって歩む」

 前々回の礼拝で、私たちは「愛にとどまる」という題で御言葉に聞きました。「愛にとどまる」とは、何もしないことではありません。動かないことでもありません。それは、帰る場所を持って生きることです。どこへ行っても、どんな一日を過ごしても、必ず戻ってよい居場所があるのです。また、前回の礼拝では、「愛は神様から」ということを聞きました。私たちが神様を居場所にできるのは、私たちの信仰が強いからではありません。神様のほうが、先に私たちを迎え入れてくださったからです。愛は、人間の内側から湧き上がるものではありません。神様から流れ出るものです。だから、私たちは愛にとどまることができます。愛が尽きない方が、居場所になってくださっているからです。

 そして今日、「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして、わたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」という御言葉を聞いています。ここで、「とどまる」から「歩む」へと、動きが変わっています。これは矛盾ではありません。深い連続です。居場所があるからこそ、人は外へ出て行けます。帰る場所がない人は、本当の意味で歩くことができません。それは、常に不安だからです。愛によって歩むとは、愛の居場所を離れることではありません。むしろ、愛の中から出て行くことです。神様の愛を背負って、この世を歩くことです。

 

 この歩みには、「方向」があります。ただ歩いているだけなら、それは散歩かもしれません。けれども「愛によって歩む」というとき、そこには向かう先が定められています。それは、自分が安心できる場所へ向かうことでも、自分が評価される場所へ向かうことでもありません。神様の愛が向かっていく方向へ、自分の向きを合わせて歩くということです。イエス様の愛は、常に「自分の外」へと向かっていきました。傷ついている人へ。声を奪われている人へ。拒まれている人へ。そして、愛することが難しい人へと向かっていきました。「愛によって歩む」とは、自分の居心地のよい場所にとどまることではなく、神様の愛が向かう方向に、少しずつ身体の向きを変えていくことなのです。それは大きな勇気を必要とします。だからこそ、「愛にとどまる」という居場所が、先に必要だったのです。

私は、保育園で子どもたちと過ごす中で、子どもたちから、たくさんの愛をいただいています。それは、私の力や人間関係のうまさから生まれているものではなく、神様の愛が、子どもたちを通して、私のところに流れてきているのだと感じることがあります。

 先日、0・1歳児のクラス礼拝でお話をさせてもらいました。0・1歳児ですから、泣く子もいれば、騒ぐ子もいれば、どこかへ逃げ出す子もいるだろうなと思っていました。ですから一緒にいる時が神様のお守りを共に感じ、温かい時となれば、それだけでいいかというくらいの気持ちで話をしようとしました。「愛は神様から」という事が分かるように「大好きはどっちが先」という題の絵本を読みました。そうすると、思っていた以上に子どもたちは食いついて見てくれるのです。もちろん、関心を向けられるように周りの大人が、さすがだなと思うくらい上手にフォローをしてくれてもいます。私が言ったことを繰り返してくれたり、子どもが言ったことを同意してくれたりと本当に助けてもらいました。そして、子どもたちの素直な反応に「そうだよな」と考えさせられることもありました。

最初は、私の後ろに神様がいて私を通して神様の愛を伝えようと傲慢な思いを持っていたのですが、実は子どもたちや職員の後ろに神様がいて、そこからの神様の愛を子どもたちや職員を通して私に頂いていたのだなと感じました。

 また、子どもたちのすごいところは、自分がやってもらってうれしかったことを、「今度は誰かにやってあげたい」と、自然に思えるところです。誰かに優しくしてもらったら、その優しさを別の誰かに渡そうとする。しかもそれを、「子どもだから」「大人だから」と区別しません。友だちにも、自分より小さい子にも、大人にも、同じように向けていくのです。子どもたちは、愛をため込もうとはしません。愛は、受け取ったら流していくものだということを、身体で知っているかのようです。愛によって歩むとは、まさにこのような歩みなのだと思います。自分の中に愛を確保してから歩くのではなく、与えられた愛に押し出されるように一歩を踏み出していく歩みです。

 また、神様との歩みには歩く速さがあります。私たちはよく、「もっと早く変わらなければ」「もっと成長しなければ」と、自分を急き立てます。けれども、聖書はどこにも、「急いで歩みなさい」とは言いません。「愛によって歩みなさい」と語ります。愛には、特別な速さがあるのです。愛は、走らされるものではありません。競争でもありません。愛は、相手に合わせて歩くものです。立ち止まっている人がいれば、待ちます。遅れている人がいれば、共にゆっくり進みます。それは、キリストご自身が、そういう歩みをなさいました。だから、愛によって歩むとは、「理想の自分」になる速さではなく、神様が私に合わせてくださる速さを、そのまま受け入れて歩くことです。信仰生活で疲れてしまう多くの理由は、愛ではなく、焦りによって歩いてしまうことにあります。「まだ足りない」「まだだめだ」そう言われ続ける歩みは、やがて止まってしまいます。愛によって歩むとは、立ち止まってもよい歩みなのです。

 そして、「愛によって歩みなさい」という言葉の、とても大切な点は、この歩みには、同行者がいるということです。私たちはつい、信仰を「自分の歩み」と考えてしまいます。自分がどれだけ信じられているか、どれだけ愛せているか、どれだけ正しく歩けているかを気にしてしまいます。けれども、今日の御言葉は、「あなたがたも」と、複数形で語られています。これは、個人への言葉であると同時に、共同体への言葉です。愛によって歩むとは、互いに不完全な者どうしが、同じ愛の中を歩くことです。誰かが速すぎれば、誰かが待ってあげる。誰かが迷えば、誰かが支える。教会とは、愛によって完璧に歩ける人の集まりではありません。愛によって歩めない者たちが、それでも同じ方向を向いて歩いていく場所です。そして何よりも、この歩みには、イエス様ご自身が同行しておられます。私たちが意識できなくても、歩みをやめてしまったように感じる時でも、イエス様は、私たちから離れておられません。愛によって歩むとは、愛の向かう方向へ神様に委ねられた速さで、決して一人ではなく歩むことです。それは、強い者の歩みではありません。弱さを抱えた者の、支えられた歩みです。

 私たちがどんな時に「愛によって歩んで」いるのか、それが形と表れているのが今日の聖書の言葉で言うと「感謝」をあらわしている時です。相手を思わない言葉の中には、神様の愛はありません。「感謝」は神様の愛が形として出ているのです。ですから、感謝の言葉がとびかっている所には神様の愛が満ちている所でもあるのです。

 三週続けて、「神様の愛」について御言葉が与えられました。「愛にとどまる」「愛は神様から」「愛によって歩む」。これは、信仰生活の循環です。とどまり、受け取り、歩み、そしてまた、とどまる。私たちは、愛によって歩みきれる者ではありません。だからこそ、神様は、いつでも戻ってよい居場所であり続けてくださいます。歩き疲れたら戻ってよい、迷ったら立ち止まってよい、そしてまた神様と共に歩いたらいいのです。