2月8日 主日礼拝 メッセージ
ヨハネの手紙 4章16-21節 「愛は神様から」
今日は、その続きとして、その居場所となっている愛が、そもそもどこから来ているのかということです。聖書は、それをはっきりと「愛は、神様から」と語ります。今日の聖書箇所は「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」です。この言葉、みなさんはどう聞かれるでしょうか。「なるほど」と思うでしょうか。それとも、「きれいな言葉だけど、現実はそんなに簡単じゃない」と感じるでしょうか。この聖書の言葉は、愛したのが神様より後だから「もっと頑張って愛しなさい」とか、「ちゃんと愛せないあなたはだめだ」と責めているわけではありません。この言葉は、「あなたが愛せるようになった理由」を語っています。しかも、「あなたが愛せるようになった」のは「あなたが努力したから」でも「あなたの性格が優しいから」でもありません。「神が、まずあなたを愛してくださったから」それだけなんです。
私たちはつい、順番を逆に考えてしまいがちです。「ちゃんと愛せたら、神様に受け入れてもらえる」「立派に生きられたら、神様は喜んでくださる」と考えてしまうことがあることでしょう。でもヨハネは、はっきりと順番を逆だと言います。先に、神の愛がある。私たちが何かする前に、うまく生きる前に、失敗や弱さを抱えたままのその時に神様がまず、愛してくださった。だから、私たちは愛することへと招かれていくのです。ここで大切なのは、「愛さなければならない」という義務よりも、「すでに愛されている」という事実なんです。私たちは愛されているから、少しずつ愛することを学んでいきます。完璧じゃなくてもいい、途中でつまずいてもいい、それでも、神様の愛が先にあって、私たちはそこから歩き出します。
今日の礼拝では、この「先にある神の愛」が、私たちの日常の中で、どんな意味を持つのか。そして、愛することに疲れてしまった私たちを、どのように支えてくれるのか、ご一緒に聖書から聞いていきたいと思います。
まず、私たちは、「愛することが得意な人間」でしょうか。いつでも余裕をもって人に接し、どんな相手にも忍耐強く、裏切られても赦し続けることができるでしょうか。おそらく、ほとんどの方が「いいえ」と答えるのではないかと思います。最初のうちは大丈夫でも、時が過ぎ去っていくとだんだんと心がすり減っていく。忙しさや疲れがたまると、ほんの一言でイライラしてしまう。家族だから、分かってくれるはずだと思って、つい強い言い方をしてしまう。職場でも、本当は優しくしたいのに、余裕がなくて自分のことで精一杯になる。そんな状態になって「あーあ」と思う事もあります。
それは、私たちが愛を「無限に生み出せる存在」ではないから仕方がないのです。これは、恥ずかしいことでも、信仰が足りない証拠でもありません。私たちは神様に創られた被造物であり、限りある存在だからです。だからこそ、聖書は「愛は、神様から。」と語ります。これは、とても大切な宣言です。「愛は、神様から。」は、神様に負けないように「あなたはもっと愛しなさい」と私たちを追い立てる言葉ではありません。むしろ、「愛の出どころを、取り違えてはいけない」そう教える言葉です。
私たちはつい、「自分の中に愛があるかどうか」ばかりを気にします。愛せなかったとき、私たちはすぐに自分を裁いてしまいます。「私は冷たい人間だ」「信仰者失格だ」「こんな自分は、神様に喜ばれていない」でも、聖書は、私たちにそういう自己否定を勧めてはいません。むしろ、愛せないときこそ、神様のもとに戻りなさいそう招いています。なぜなら、愛は神様から来るものだからです。何もなく自分の心が空っぽだと感じるとき、それは「終わり」ではありません。それは、神様の愛を受け取るための準備や入り口です。神様の愛が、最もはっきりと示されたのが、イエス様の十字架です。十字架は、「あなたは立派だ」という証明ではありません。むしろ、「あなたは弱い。それでも、私はあなたを見捨てない」という宣言です。失敗する私たち、同じ罪を繰り返す私たち、愛したいと思いながら、うまくできない私たちに、そのすべてを知ったうえで、神様は愛を差し出されました。だから、私たちは絶望しきらずに済むのです。
神様は、けっして大きな愛を求めておられるのではありません。英雄的な行為や劇的な犠牲や人に誇れる信仰等、そういうものがなければだめ、ということではありません。「一言のねぎらい」や「黙って話を聞くこと」や「名前を挙げて祈ること」それで十分です。なぜなら、その愛は、神様から来た愛が、あなたを満たして流れたしるしだからです。私たちにとって愛は、いつも温かい感情として感じられるとは限りません。正直に言えば、気持ちが伴わない日もあります。でも、聖書の語る愛は、感情よりも「方向」です。どこを向いて歩もうとしているか。誰の方へ心を向けているか。たとえ心が冷えていても、神様の方を向いて生きようとする。それ自体が、愛の歩みです。
愛せなくなった時、もう無理だと思った時、自分の冷たさに嫌気がさした時、そのとき、思い出したいのは、「もっと頑張れ」ではありません。「神が、まず、あなたを愛している」その事実です。私たちが愛することに失敗しても、神様の愛は失敗しません。だから、できない自分を恐れることはありません。まず神様の愛を受け取る事です。そうすると私たちは、神様の愛に支えられて、今日も安心出来るのです。
そして、その神様の愛は、目の前にいる隣人との関わりに現れることも忘れてはいけません。ヨハネは、20節からに『「神を愛している」と言いながら、兄弟姉妹を無視したり傷つけたりすることはできません』と言います。神の愛を受けた者は、必ずその愛を行動に表すのです。だから、愛とは完璧であることではなく、神様の愛に生き、弱さの中でも小さな愛を差し出す歩みです。恐れや不安があっても、神様の愛が私たちを支えてくれることを信じて、今日も愛を生きる事が出来るのです。「愛は神様から」その愛が、私たちを通して隣人に流れていく。これこそ、私たちが歩むべき道です。
先週、私たちは「愛にとどまる」ことを聞きました。今週は、その愛が「神様から来る」ことを聞きました。では、その愛は、私たちの生活の中で、どうなっていくのでしょうか。聖書は、愛をただ心の中にしまっておくものとしては語りません。愛は、神様と共に歩む中で、少しずつ、形を与えられていきます。完璧ではなくても、迷いながらでも、立ち止まりながらでも、神様の愛の中を、一緒に歩いていく。
来週は、「愛の中を歩む」という題で、神様の愛に支えられながら、日々の生活をどう歩んでいくのか、その具体的な姿を、聖書と共に考えていきたいと思います。

