1月25日 主日礼拝 メッセージ
マタイによる福音書 6章9-13節 「こう祈りなさい」
今年は、保育園の月1回の合同礼拝で「主の祈り」について少しずつ話をして、同じ週の教会の礼拝でも「主の祈り」について少しずつ説教として話してきました。明日の保育園の合同礼拝では、「主の祈り」の最後の部分を話すのですが、教会の礼拝では「主の祈り」の総括として、全体について説教したいと思います。
9節の冒頭に、「だから、こう祈りなさい」とあります。主の祈りは、イエス様が、「こう祈りなさい」と言って教えて下さったものなのです。主の祈りは、神様にこんなふうに祈ったらよいのではないか、こう祈ったら神様は喜んで下さるのではないか、と人間が考えて生み出したものではないのです。神の独り子であられ、ご自身が神であられるイエス様が、「こう祈りなさい」と教え、与えて下さったものです。つまりこれは、祈る相手である神様から私たちに求められている祈りなのです。
祈りというのは、私たちと神様との関係、交わりの場です。ですから、どういう祈りをしているかに、私たちにとって神様がどういう存在であり、私たちと神様との関係がどうであるか、が現れてきます。例えば、家内安全商売繁盛というようなことだけをひたすら願い求める祈りをしているとしたら、その人にとって神様というのはそういうご利益を与えてくれる存在であり、その人と神様との関係はそういうご利益なければ無関係になります。あるいは、神様を信じてはいるが祈ることはしていない、という人は、その人にとって神様は交わりの相手ではないということです。つまりその人は、神様を信じていると思っているだけで、実際には自分一人で、自分の頭と心のみを頼りに生きているのです。そのように、どう祈るか、あるいは祈らないかに、私たちと神様との関係が現れるのです。
そうであるならば、神様が私たちに祈りをお求めになったということは、神様が、私たちとの交わりを、関係を求めておられるということです。しかも、ただ「祈りなさい」と言うのではなくて、「こう祈りなさい」と祈りの内容まで教えられたということは、「私はあなたがたとこういう関係を結ぼうとしているのだ」ということをそこで示しておられるのです。ですから私たちが主の祈りを祈りつつ生きるというのは、神様の望んでおられる関係、交わりの中で生きる、ということです。私たちの信仰は、私たちが神様のことをどう思い、どういう関係を持とうとするか、ではなくて、神様が私たちのことをどう思い、どういう関係を持とうとしておられるか、それに即して生きることです。主の祈りを祈ることには、そういう意味があるのです。
神が私たちとどのような関係を持とうとしておられるのかが、主の祈りに示されている、そのことは、「だから、こう祈りなさい」の「だから」という言葉からも分かります。この言葉によって、主の祈りは、その前の所の、イエス様の祈りについての教えと結びつけられているのです。5節からの祈りについての教えは、「偽善者のように祈るな」、「異邦人のように祈るな」という二つの部分から成っていました。イエス様は、異邦人のようにくどくどと祈るな、彼らは、言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる、と言われました。異邦人は、何故くどくどと言葉数多く祈るのでしょうか。その思いは、「言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる」ということに示されています。つまり神は私たちの祈りや願いを簡単には聞いて下さらない、何度も何度も繰り返し、沢山の言葉を費やしてお願いして初めて聞いてもらえる、というのが異邦人の感覚なのです。
私たちも、神に何かを祈り願う時には、何度も何度も繰り返し祈らなければならないと思っています。つまり、神に祈りを聞いていただくためには、私たちの側においてもそれなりの努力が必要だ、と思ってしまうのです。イエス様は、あなたがたはそのような祈りをするな、と言われました。その理由が8節です。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。これが、くどくどと言葉数多く祈らなくてもよい理由です。つまり、くどくどと祈らなくても、神は私たちの必要をちゃんとご存じであり、必要なものを必要な時に与えて下さるのです。ですから、異邦人のくどくどと言葉数の多い祈りと、主の祈りとの違いは、長さや言葉の数にあるのではなくて、祈る相手である神と祈る私たちとの関係の違い、神が私たちにとってどのような方であるか、の違いなのです。なかなか祈りを聞いてくれない、聞いてもらうためにはそれなりの努力が必要である神に祈っているのか、願う前から私たちに必要なものをご存じであり、与えて下さる神に祈っているのか、その違いです。それが、神を知らない異邦人と、神の民とされている者の違いなのです。イエス様は、主の祈りを教えて下さることによって私たちを、神を知らない異邦人としてではなく、神の民とされている者として生かそうとして おられるのです。
その、神の民とされている者の神との関係を表しているのが、「あなたがたの父」という言葉です。あなたがたが祈る相手である神は、あなたがたの父であられる、あなたがたは、神の子として、父である神に祈ることができるのだ、とイエス様は言っておられるのです。神は私たちとの間に、父と子という関係を結んで下さり、父が子を愛するように、私たちを愛して下さっているのです。「願う前から必要なものをご存じ」であるというのはそういうことです。神は、まことの父として、子である私たちに、本当に必要なものを、必要な時に、必要なだけ与えて下さるのです。神はあなたがたの父となって下さり、あなたがたを子として愛して下さっている、だからあなたがたはもはや異邦人ではない、それが「異邦人のように祈るな」というイエス様の教えの根拠です。この教えを受けて、「だから、こう祈りなさい」と主の祈りが教えられているのです。主の祈りによって私たちは、神が私たちとの間に「父と子」という関係を築こうとして下さっていることを知らされるのです。
ですから、この祈りの最初の呼びかけの言葉である「天におられるわたしたちの父よ」、私たちがいつも唱えている言葉で言えば「天にましますわれらの父よ」、この一言がとてつもなく大事なのです。この一言に、私たちと神との関係の根本が示されています。この一言があるから、私たちは異邦人のようにくどくどと言葉数多く祈らなくてもよいのです。この一言があるから、神が私たちを父として愛して下さっており、私たちが願う前から必要なものをご存じであり、それを与えて下さると信じる事が出来るのです。
イエス様ご自身は、神に向かって「父よ」と呼びかけて祈っておられました。イエス様は、神様の独り子でしたので、そう呼びかけることのできるただ一人の方でした。のイエス様が、「私が父よと呼びかけている方は、あなたがたの天の父でもある。あなたがたも、この神に、『天におられるわたしたちの父よ』と呼びかけて祈りなさい、あなたがたもそのように祈ってよいのだ」、と言って下さったのです。イエス様が、私たちと同じ人間となってこの世に来て下さったのはこのためでした。私たち人間は元々神の子ではなくて、神によって造られたもの、被造物です。しかも造り主である神に背き逆らい、敵対している罪人です。私たちにとって神が、祈り願いがなかなか届かない疎遠な存在であると思ってしまうのは、この罪の為でもあります。だから私たちは、神の民ではない異邦人のようにくどくどと言葉数多く祈らざるを得ないのです。その私たちが、神の独り子であるイエス様と共に、「天にましますわれらの父よ」と祈ることができるようになるために、イエス様は人となり、そして私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。
そのようにして、まことの神の子であるイエス様が、罪人である私たちを赦して下さり、私の父である神はあなたがたの天の父でもあられる、あなたがたも、「天におられるわたしたちの父よ」と祈りなさい、と言って下さったのです。つまり私たちが「天にましますわれらの父よ」と祈ることができるのは、イエス様の十字架の死と復活によって実現した救いのおかげなのです。ですから主の祈りは、イエス様による救いにあずかった者が祈ることができる祈りの時もありました。しかし今はそうではなくて、初めて教会に来られた方にも、共に主の祈りを祈ることをお勧めしています。それは、まだ神を信じていない人も、この祈りによって、神に「天の父よ」と呼びかけて生きる信仰へと神が招いて下さっていることを体験することができるからです。
私たちは、教会において、またそれぞれの生活において、この主の祈りを祈りつつ歩みます。この祈りを土台として、そこに様々な自分の思いや願いを加え、時には神様への愚痴や文句を語ることもあります。こんなことは祈ってはいけない、ということは私たちの信仰にはありません。なぜなら、神は私たちの天の父となって下さったからです。子どもが父に遠慮する必要はないのです。まことの父であられる神は、私たちがどんな我儘なことを言っても、私たちを見捨てて、お前はもう子ではない、と放り出してしまうような方ではないのです。勝手な我儘は通りません。しかし天の父は、子として下さった私たちに、本当に必要なものを、必要な時に与えて下さるのです。主の祈りは、神を私たちのところに引きずり降ろして思い通りにコントロールするためのものではありません。そんなことは出来ないのです。しかし、私たちがこの祈りを祈る時に、神は私たちのまことの父として、その祈りに耳を傾け、私たちに必要なものを与えて下さる、そういう父と子の交わりを与えて下さるのです。

