1月18日 主日礼拝 メッセージ
マタイによる福音書 25章14-30節 「タラントン」
先週の説教では、「放蕩息子のたとえ」を通して、神様に愛されている私たちは、神様の所に立ち返ることが何よりの神様が喜ばれることであるという話をしました。その一つとして、こうして礼拝に出席し神様に立ち返ることを神様は喜んでおられるという事もお話しました。そのように礼拝に来ることが、神様に喜んでもらえることであるならば、今日、礼拝に来たのだから神様からほめてもらいたいなとも思われたかもしれません。たぶん、神様は皆さんのことを大いに褒められることでしょう。でも、時々私たちの事を「ほめられないな」という時もあるかもしれません。
神様はどんな時に私たちをほめたり、ほめなかったりされるのかを知る為にも今日は「タラントンのたとえ」の話を聞いていきたいと思います。
タラントンというのは、当時のお金の単位です。ある家の主人が、旅に出るに際して、僕たちにお金を預けました。ある人には五タラントン、ある人には二タラントン、そしてもう一人には一タラントンを預けたのです。主人が帰って来るまでの間に、それぞれの僕が、この預けられたお金をどのように用いたか、ということがこのたとえ話のポイントです。
イエス様がこのたとえ話を語られたのは、これらの三人の僕たちの置かれた立場が、私たちと重なるからです。私たちは、主人である神様から、それぞれのタラントンを預けられてこの世を、この人生を歩んでいるのです。
このタラントンは、私たちがこの人生を生きるために神様から与えられている能力、才能等の資本です。そして、その能力や才能は、人によって違います。頑張れば百点取れる人もいれば、頑張っても七十点の人もいるのです。頑張ればプロの選手になれる人もいれば、頑張っても万年補欠という人もいるのです。
私たちはそのようにそれぞれ違った資本を神様から与えられて、この人生を生きている、その点においてこの僕たちと同じなのです。このたとえ話が注目しているのは、そのようにそれぞれに違った条件、資本を与えられている私たちが、その違いのある中で、与えられている条件、資本をどう用いていくか、ということです。
五タラントンを預けられた僕は、それを元手に商売をして、ほかに五タラントンをもうけました。二タラントンの僕も同じように、ほかに二タラントンの利益をあげました。帰ってきた主人はこの二人をほめて、「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と言いました。主人がこの二人を、全く同じ言葉でほめていることに注目したいと思います。主人のこの二人への評価は、どれだけの利益をあげたか、その額に左右されてはいないのです。主人が喜んでいるのは、彼らが儲けをあげて主人の財産を増やしたことではなくて、彼らが、自分に与えられたものを生かして有効に用い、有意義な人生を送ったことです。そのことを、彼らのために喜んでいるのです。神様はこのように、私たちが、自分に与えられている条件を生かして用い、有意義な人生を送ることを喜んで下さる方なのです。
さて問題は、一タラントンを与えられた人です。彼は、預けられた一タラントンを、地面に穴を掘って埋めておきました。つまり彼は預けられたものを、生かして用いなかったのです。彼はなぜ預けられたタラントンを生かして用いることをしなかったのでしょうか。そのことは、彼に預けられたものが一タラントンだったことと関係があると思います。彼は、同じ僕たちの中で、あの人には五タラントン、この人には二タラントンが与えられているのに、自分には一タラントンであることが面白くなかったのでしょう。つまり、神様がそれぞれに与えておられる人生の条件の不公平さに彼は腹を立てているのです。
そういう彼の主人に対する怒りが、24、25節の言葉に現れています。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です」。彼は、主人が恐かったのだと言っています。しかし彼の言葉に現れているのは、恐れよりもむしろ怒りです。
彼のこの怒り、不満は、私たちが、自分に与えられている人生の条件を人と見比べて、どうしてあの人に与えられているものが自分にはないのだろうかと人をうらやみ、劣等感を感じ、不公平だと思う時に神様に対して抱く思いです。自分をこのような者として造り、人生の様々な条件を与えたのが神であるならば、その神は愛のない暴君のような存在ではないか、神が自分を愛しているなどとはとうてい思えない、神は自分をないがしろにし、軽んじ、どうでもよいと思っているのだ。神に愛されているのは一部の恵まれた人たちだけなのだ。それがこの人の思いであり、私たちがしばしば陥る思いでもあるのです。そのような思いに陥る時、私たちは、自分が自分であることを喜べないのです。そして与えられている人生の条件を生かして用いる事が出来ないのです。積極的に生きる事が出来なくなり、どうせ自分はダメなんだとひがみ、神と隣人を恨みながら生きることになるのです。
私たちは誰でも、この一タラントンの人の気持ちがわかります。そして彼に同情を覚えるのです。何故ならば、それは人との比較から生じる思いだからです。
一タラントンというのは、当時の普通の労働者が一日働いて得る賃金の六千倍の金額です。六千日分、約二十年分の賃金です。それを一度にポンと与えられたら、普通なら舞い上がってしまうようなことです。しかし彼は不満だった。喜ばなかった。それは、他の人と見比べたからです。他の人には五タラントンや二タラントンが与えられているのに、自分には「たった」一タラントンだ、と彼は思ったのです。このことは、人との比較ということによって、私たちがいかに、自分に与えられている賜物、よいものを見誤り、見失ってしまうか、ということを描いています。
一タラントンは、客観的に見れば、すばらしい賜物なのです。「こんなものもらったって何になるか」というようなはした金ではない、それを生かして用いれば必ず豊かな実を結ぶ事が出来るようなものなのです。神様は私たち一人一人に、そういうすばらしい資本、人生の元手を与えていて下さるのです。ところが私たちは、自分に与えられているものを人のものと見比べてしまう。そうするととたんに、自分のものが色褪せて見えてしまうのです。すばらしい賜物が与えられている事が分からなくなってしまうのです。
このたとえ話は、神様から与えられている人生の条件、能力や環境が様々に違う中で、人と自分とを見比べることによってひがみの思いに陥り、自分が自分であることを喜べなくなり、自分に与えられているものを生かして人生を前向きに、積極的に生きる事が出来なくなってしまう、そのような私たちに、自分に与えられている一タラントンのすばらしさを教えようとしているのです。それは言い換えれば、彼に一タラントンを与えて下さった神様の恵みを教えようとしている、ということです。
この主人がもしも自分の財産を守り、それを確実に増やすということを第一に考えていたならば、銀行に預けておいた方が危険が少ないです。しかしこの主人は敢えて、リスクを犯して、僕たちにそれを預けました。それは僕たちを信頼し、期待し、大切に思っているということです。主人は、僕たちを愛しているからこそ、自分の財産を預けたのです。
私たちが、それぞれに違った様々な人生の条件を与えられて、今こうして生かされている、そこには、この神様の愛があるのです。神様は、私たちを愛し、信頼し、期待し、大切に思っておられるがゆえに、私たちに様々な賜物を与え、つまり私たちに投資して下さっているのです。そこには、リスクが伴います。投資された私たちが、その宝を本当に生かして、それに相応しく用い、よい実りを生み出していくとは限らないのです。いやむしろ私たちは、神様が与えて下さっている様々な賜物を生かさずに無駄にしてしまう事がいかに多いことでしょうか。
神様が私たちのためにこの世に遣わして下さったイエス様においても同じことが起っています。それが、イエス様の十字架の苦しみと死です。私たちが受け入れず、イエス様に従うことなく拒み、その恵みを無にしてしまう、それが、イエス様の十字架の苦しみと死の原因なのです。
神様は、それぞれへの賜物を何も用いない時には、ほめられませんが、何らかの形で生かそうとするならば、たとえ失敗してもほめられます。凄い事をしなくても、うまくできなくてもチャレンジすることをほめられるのです。
自分に与えられたタラントン・賜物は何だろうと思うこともあります。自分は何にも出来ないと落ち込むこともあります。たぶんそれは、他の人と比べているから何もないと思うのでしょう。神様は、それぞれを愛し、共にいて、出来ることを常に与えてくださっています。今日この場にいることもその一つでしょう。「神様の御用の為に用いてください」と祈っていれば、何かを与えられます。そのことに感謝し共に歩んでいきましょう。

