12月28日 主日礼拝 メッセージ
マタイによる福音書 2章13-15節 「受け入れられる」
今年もイエス様のお誕生をお祝いするクリスマスを多くの方々と共にお祝いできましたことを嬉しく思います。いつの時代もクリスマスは、喜びの時として過ごしています。
先ほど読んでもらいました御言葉の箇所は、クリスマスの喜びの直後の出来事です。クリスマスの出来事では、占星術の学者たちが、不思議な星を追いかけて、イエス様の元に来て、真の光である方に出会い、学者たちは喜びに満ちあふれていました。 しかし、その続きの今日の箇所に描かれている場面は、真っ暗闇です。ヘロデという権力者が、殺そうと追っかけてくる。そして真夜中の逃避行。死という恐怖に脅かされながら、逃げる。場面は、暗く、そして緊張感に包まれています。
2章1節から、12節のところには、追い出す者と、従う者のことが書かれていました。追い出す者とは、ヘロデ王のことです。彼は、自分がユダヤの王であったので、ユダヤに新しい王が生まれると聞いて、自分の地位を守ろうとして、イエス様を追い出そうとします。人間は、自分中心になるとヘロデのように、自分にとって都合の悪い者、今日の場面ですとイエス様を自分の場所から外に追いやろうとしてしまうものです。自分を中心に据えたい、自分の地位を守りたい、そのような性質を私たちは持っています。それは、自分に近づいてくる人は、すべて自分の立場を脅かす者であると、恐れているからです。その恐れのあまり、自分を救いに来て下さった方までも、悪者のように思い、近くに来ないでくれ、近くに来るなら攻撃するぞ、となってしまうのです。そのように、外からから来たものを、無条件に受け入れるということが、私たちは、なかなか出来ないものです。自分の都合の良い人とだけの世界を作りたがってしますのです。
しかし、ヨセフは、夢という形で、自分に現れた天使の言葉を受け入れて、それまで生きていた土地、職業、家族を捨て、エジプトまで幼子イエス様と、妻マリアを連れて、その夢を見た直後に、夜の内に、逃亡するのです。ヨセフはなぜ、そのように出来たのでしょうか。今日の箇所では、追いだそうする者ヘロデと、受け入れて従う者ヨセフの姿が対比されて描かれています。ヨセフは、受け入れる人でした。しかし、ヨセフが元々そのような人であったのではありません。ヨセフも、元々は、ヘロデと同様に受け入れられない者でした。マリアが、妊娠していることを知った時、彼は、彼女が聖霊によって身ごもったと言っていることを、受け入れ事ができずに、マリアと離婚しようと考えていました。ヨセフも、初めは追いだそうとする者でありました。
ヨセフが変わったのは、神様の言葉を聞いた日からでした。ヨセフは、自分の現実、自分の弱さに、苦しんでいました。神様は、ヨセフに夢を通して、人を受け入れられず、追い出してしまう、信じる事が出来ないという性質を、ひっくり返す、新たに作り変える、言葉を与えてくださったのです。その言葉は、ヨセフにとっては、夢の中で語られた言葉でした。
今の私たちなら、この聖書に書かれている御言葉、そして、神様が語って下さるこの礼拝の中の説教です。この神様の御言葉と出会わなければ、聞くことがなければ、私たちは信じる者にも、受け入れる者にも、なる事は出来ないでしょう。それは、なぜか。なぜなら、私たちは、自分が人から受け入れられていることをなかなか感じられないのです。だから、人を受け入れる事が出来ないでいるのです。しかし、神様が語ってくださるメッセージは、「わたしはあなたたちを受け入れる」ということです。このメッセージを聞いて、神様を追い出そうとしていた私たちが、実は神様に受けいれられていたのだと知ることになります。その時、初めて私たちは、神様に悔い改めることになるでしょう。そして、神様を信じるものなるでしょう。そして、それから追い出す者でなく、受け入れる事が出来る者へと変えられていくのです。
ヨセフは、今日の箇所で、神様の言葉を受け入れてすぐさま行動をしています。ヨセフとマリアと幼いイエス様は、夜も明けない暗闇の中を歩みます。目的地は住んだこともない、見知らぬ土地エジプトです。不安や恐怖に押しつぶされそうになってもおかしくない状況です。しかし、ヨセフとマリアは恐れてはいなかった。なぜならば、神様の子、イエス様が共にいてくださるからです。それは、幼子イエス様が、不思議な力で、ヘロデをやっつけてくれるから大丈夫だと思っていたのではありません。そうではなくて、イエス様が共にいて下さる限り、全知全能の方、万軍の主、すべてを支配される方である、父なる神様が守って下さるということを信じていたからです。
私たちの人生も、恐怖や不安に脅かされています。しかし、私たちは、この世を歩むときに、恐れなくていいのです。なぜならば、イエス様が今も私たちと共にいてくださるからです。イエス様が共にいて下さるという事を、知っている時、同時に私たちは神様が今も私たちを守り、導いてくださることを知る事が出来るのです。私たちが、イエス様を忘れて歩んでいる時、私たちは、言わば自分が無防備であると、勘違いをします。本当は、イエス様が片時も離れないで一緒にいてくださるのに、イエス様のことを忘れているので、恐怖に怯え、真っ暗闇の中で道がわからなくなってしまったと、右往左往してしまうのです。イエス様を忘れている状態というのは、私たちが目を閉じているということでしょう。私たちが声を信じて、イエス様の手をにぎるというのが、信仰を告白し洗礼を受けるということでしょう。ですから、信仰を告白し洗礼を受けているものは、既に手を握られています。じゃあ、信仰者になったら、「私たちは、イエス様に手を握られているから、なにしてもいいや、目を閉じていてもいいじゃん」と思って、そのようにしていていいのかといえば、そうではありません。イエス様は私たちに、「目をさましていなさい」と言われています。これは、信仰の目を開いていなさいということです。私たちは、イエス様に手を握っていただいているのに、時に眠ってしまい信仰の目を閉じてしまうのです。なぜ、眠ってしまうのかと言えば、声を聞いていないからです。手を繋いでいるけれども、イエス様の声を聞いていないので、眠ってしまうのです。だから、信仰者になっても、イエス様の言葉を聞かなくてはならないのです。
そのように、しっかりとイエス様と共にいることを自覚しているとき、私たちは同時に、父なる神様の導きを見る事が出来るでしょう。私たちは、イエス様と共にいることを自覚してない時から、父なる神様に守られ、導かれ、養われてきました。
イエス様に受け入れられ導かれて、新しい年も安心して歩んでいきましょう。


