10月4日 世界聖餐日礼拝 メッセージ
マタイによる福音書7章7-12節 「人にしてもらいたいこと」
今日の聖書には、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」というイエス様のとても有名な言葉があります。私たちはこの言葉を、「自分がしてもらってうれしいことを、人にもしてあげましょう」という意味に受け取ることが多いと思います。困っているときに助けてもらったらうれしい。寂しいときに声をかけてもらったらうれしい。失敗したときに「大丈夫だよ」と言ってもらったらうれしい。だから、自分がしてもらってうれしいことを、人にもしてあげる。とても分かりやすい教えです。
けれども、実際にやってみると、少し難しいところがあります。自分は話を聞いてもらいたいと思うから、相手にもたくさん話しかける。でも、その人は今、一人で静かにしていたいと思っているかもしれません。自分だったら助けてもらったら嬉しいから、困っている人を一生懸命助ける。でも、相手は「自分でやってみたい」と思っているかもしれません。ですから、「自分がしてほしいことを、そのまま相手にする」だけでは十分ではありません。「私はこうしてもらったらうれしい」と思うところから、もう一歩進んで、「では、この人は今、何を必要としているのだろう」と相手を見ることが大切です。今日、この御言葉を世界聖餐日の礼拝で聞くとき、そのことを特に覚えたいと思います。
今日はこの後に聖餐の食卓にあずかります。しかし、この食卓に招かれているのは、ここにいる私たちだけではありません。世界中の教会で、同じ主イエス・キリストを信じる人々が聖餐にあずかります。国も違います。言葉も違います。文化も違います。生活している場所も違います。考え方も違います。それでも、私たちは同じ主イエス・キリストによって一つにされています。聖餐の食卓は、「同じ考えの人だけが集まる食卓」ではありません。違いを持った一人ひとりが、主によって招かれる食卓です。
そして、ここで大切なのが、12節だけではなく、その前の7節から11節です。イエス様は、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と教えておられます。そして11節では、「あなたがたの天の父は、求める者に良いものをくださる」と言われています。つまり12節は、突然「人に親切にしなさい」と言われているのではありません。その前に、神様が私たちに良いものを与えてくださることが語られています。私たちは、まず神様からいただくのです。神様から愛をいただく。神様から赦しをいただく。神様から支えていただく。そして、そのいただいたものを人に手渡していくのです。だから、「自分がしてほしいから人にする」のではなく、「神様から愛されているから人を愛する」。ここが今日の御言葉の大切なところだと思います。
それは、聖餐にも表れています。私たちは、自分が立派だから聖餐の食卓に招かれるのではありません。イエス様が私たちを招いてくださるから、ここに来ることができます。私たちは、自分の力で恵みを獲得するのではなく、主が差し出してくださる恵みを受け取るのです。そして、この食卓には、私たちとは違う人々も招かれています。世界のどこかで礼拝している人たち。私たちとは違う言葉を話す人たち。違う文化の中で生活している人たち。苦しみや困難の中にいる人たち。その一人ひとりも、同じ主によって招かれている兄弟姉妹です。ですから、「人にしてもらいたいと思うことを、人にしなさい」という言葉を、世界聖餐日に聞くとき、「自分と同じようにしてあげればよい」と考えるだけではなく、「この人にとって、今、何が良いのだろう」と考えてみたいと思います。
自分は寂しいとき、誰かにそばにいてもらったら嬉しかった。だから、寂しそうな人に声をかける。でも、その人が今は一人でいたいのであれば、「何かあったら言ってね」と伝えて、待ってあげる。それも愛です。自分だったら助けてもらったら嬉しい。だから困っている人を助けようとする。でも、その人が自分でやってみたいのであれば、何でも代わりにしてあげるのではなく、見守ることも愛です。愛するということは、自分のしたいことを相手にしてあげることではありません。相手を一人の大切な人として見ることです。その人にも神様から与えられた命がある。その人にも神様の愛が注がれている。そのことを信じて、その人のことを考えるのです。そして、このことは、世界の人々に対してだけではなく、私たちのすぐ隣にいる人に対しても同じです。世界平和という大きなことを考える前に、まず今日出会う一人の人を大切にする。家族の言葉に耳を傾ける。教会で隣に座る人に声をかける。元気のない人を気にかける。意見が違う人の話も聞いてみる。その小さな一つひとつが、主の愛を手渡していくことに繋がります。
そして、もう一つ大切なのは、「こんなにしてあげたのに」という思いから自由になることです。私たちは人に親切にすると、「これだけしてあげたのだから、きっと相手も自分に親切にしてくれるだろう」と期待してしまいます。でも、そうならないことがあります。親切にしても、感謝されない。大切にしても、大切にしてもらえない。助けても、助けてもらえない。そんなとき、「私はこんなにしてあげたのに」「どうして私にはしてくれないの」と、相手を責めたくなります。
しかし、イエス様は、「そうすれば、相手もあなたに同じことを返してくれる」とは言われていません。私たちが人に愛を与えたからといって、必ず同じ愛が返ってくるとは限りません。それでも、愛するのです。なぜなら、私たちが人から愛を返してもらうために愛するのではないからです。私たちの愛の出発点は、人ではなく神様です。神様の方から、先に私たちを愛してくださっているからです。人から愛を返してもらえないときにも、神様の愛はなくなりません。人から大切にされないときにも、神様は私たちを大切にしてくださっています。だから、「私はこんなにしてあげたのに」と、自分のしたことを数え続けなくてもよいのです。
今日、私たちは聖餐の食卓にあずかります。そして、世界中の教会でも、同じ主の食卓を覚えている人々がいます。私たちは、同じ主によって愛され、同じ主によって招かれています。だからこそ、互いの違いを超えて、一人ひとりを主にある兄弟姉妹として見ていきたいと思います。そして、神様からいただいた愛を、自分のところで止めるのではなく、家庭へ、教会へ、地域へ、そして世界へと手渡していきたいと思います。私たちが今日いただくパンと杯は、私たちを「一人で信仰する者」とするためではありません。主にあって互いにつながり、共に生きる者とするためです。私たちの目の前にいる人も、遠く離れた国にいる人も、同じ主によって愛されています。そのことを覚えながら、私たちもまた、主の愛を分かち合う者として歩んでいきたいと思います。
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」
この御言葉を、今日、主の食卓からいただく恵みとともに心に刻みたいと思います。私たちはまず、神様から愛されています。その愛を受け取った者として、「この人にとって、今、何が良いのだろう」と相手を見ながら、人を大切にして歩んでいきたいと思います。

