9月27日 主日礼拝 メッセージ

ヘブライ人の手紙12章1-3節 「イエスを見つめて」

 前々週、私たちはマタイによる福音書14章から、「来てくださる主」という題で御言葉を聴きました。弟子たちが湖の上で嵐に遭い、不安と恐れの中にいたとき、イエス様は弟子たちのところへ来てくださいました。そして前週は、ヨハネによる福音書21章から、「待っていてくださる主」という題で御言葉を聴きました。失望し、疲れていた弟子たちを、イエス様は責めるのではなく、ガリラヤの湖のほとりで待っていてくださいました。

 この二つの御言葉を通して、私たちは、イエス様が私たちを決して見捨てないお方であることを教えられました。苦しんでいるときには、私たちのところへ来てくださる主。疲れ、失望しているときには、私たちを待っていてくださる主。では、そのようなイエス様に、私たちはどのように目を向けて歩んでいけばよいのでしょうか。

 今日の聖書、ヘブライ人への手紙12章2節には、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」とあります。「イエスを見つめながら」。私たちは毎日の生活の中で、心配事や自分の失敗、弱さばかりを見つめてしまうことがあります。けれども、今日の御言葉は、「イエスを見つめながら」と語りかけています。「来てくださる主」。「待っていてくださる主」。そのイエス様を、今度は私たちが見つめるのです。イエス様はどのようなお方なのか。そして、イエス様を見つめるとき、私たちはどのように歩むことができるのか。今日は、「イエス様を見つめて」という題で、ご一緒に御言葉を聴いてまいりたいと思います。

 今日の御言葉には、「イエスを見つめながら」とあります。「見つめる」とは、ただ目で見るということではありません。心をイエス様に向けることです。私たちは毎日の生活の中で、いろいろなものを見つめています。仕事のこと、家族のこと、人間関係のこと。そして、心配なことばかりを見つめてしまうことがあります。「あのことはどうなるだろう」「うまくいかなかったらどうしよう」「自分はどうしてこんなにできないのだろう」そんなことを考えているうちに、不安がどんどん大きくなることがあります。けれども、今日の御言葉は私たちに、「イエスを見つめながら」と語りかけています。心配ばかりを見るのではなく、自分の弱さばかりを見るのでもなく、もう一度、イエス様に目を向けるのです。

 では、私たちが見つめるイエス様は、どのようなお方でしょうか。2節には、「信仰の創始者また完成者であるイエス」とあります。私たちが信仰を始めることができるのも、最後まで歩むことができるのも、イエス様がおられるからです。イエス様ご自身も、決して楽な道を歩まれたのではありません。御言葉には、「御自身の前に置かれた喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架を忍び」とあります。イエス様は、苦しみや十字架を経験されました。それでも、その道を歩み続けられました。その先にある神様の御心と救いを見つめておられたからです。ここに、私たちがイエス様を見つめる意味があります。苦しいことだけを見るのではなく、その苦しみの中にも共にいてくださるイエス様を見るのです。

 ここで、前々週に聴いたマタイによる福音書14章を思い出したいと思います。弟子たちが湖で嵐に遭ったとき、イエス様は湖の上を歩いて弟子たちのところへ来てくださいました。ペトロは、イエス様の「来なさい」という言葉を信じて、舟から出て歩き始めました。ところが、強い風に気づくと、怖くなって沈みかけました。イエス様を見ていたペトロの目が、風や波へと向いてしまったのです。私たちの生活にも、風や波のような出来事があります。病気、仕事、家族、人間関係。心配なことや、苦しいことがあります。それらを無視する必要はありません。けれども、その問題だけを見つめ続けるのではなく、もう一度イエス様を見る。「イエス様、あなたがいてくださる」そう思い出すことが大切なのです。

 そして前週、私たちはヨハネによる福音書21章から、「待っていてくださる主」という御言葉を聴きました。弟子たちは、夜通し魚を捕っても何もとれず、疲れ、失望していました。その弟子たちを、イエス様は責めるのではなく、湖の岸で待っていてくださいました。これは、私たちにとっても大きな慰めです。私たちが疲れているとき、失望しているとき、「もうだめだ」と思っているときにも、イエス様は私たちを見捨てません。だから私たちは、安心してイエス様を見ることができます。「私は一人ではない。イエス様がいてくださる」そう思い出すことができるのです。

 今日の1節には、「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」とあります。信仰の歩みは、競走にたとえられています。けれども、これは人と競争するということではありません。誰かより早く走らなければならないのでもありません。私たちには、それぞれの歩みがあります。元気に歩ける日もあれば、疲れてなかなか前に進めない日もあります。迷うこともあります。立ち止まることもあります。それでも大切なのは、もう一度イエス様を見ることです。

 では、私たちは、今の生活の中で、どうしたらイエス様を見つめることができるのでしょうか。聖書を読むこと、祈ること、そして毎日の生活の中で「イエス様ならどうされるだろう」と思い出すことです。朝、聖書を一節読む。「イエス様、今日も一緒にいてください」と祈る。誰かに腹が立ったとき、「イエス様ならどうされるだろう」と考えてみる。そのような小さなことを通して、私たちは何度もイエス様に心を向けることができます。イエス様を見つめるというのは、特別なことをするということではありません。毎日の生活の中で、何度もイエス様を思い出し、心を向けることなのです。イエス様を見つめると、「もう一歩だけ歩いてみよう」と思うことができます。今日一日を歩いてみよう。もう一度祈ってみよう。もう一度、神様に心を向けてみよう。そんな小さな一歩を、イエス様と一緒に歩むことができるのです。私たちは、「自分が頑張って信仰を守らなければならない」と思うと、疲れてしまいます。けれども、信仰は、自分の力だけで頑張ることではありません。イエス様を見つめる。そして、イエス様に支えられながら、一歩ずつ歩んでいく。そのことが大切なのです。

 今日の御言葉は、私たちに、「イエスを見つめながら」と語りかけています。私たちは、これからもいろいろなことを経験するでしょう。うれしいこともあります。楽しいこともあります。しかし、思い通りにならないこともあります。不安になることもあります。疲れてしまうこともあります。そんなときに、私たちは何を見るでしょうか。心配なことばかりを見つめるでしょうか。自分の弱さばかりを見るでしょうか。そうではなく、もう一度、イエス様を見るのです。「イエス様、あなたがいてくださる」そう思い出すのです。来てくださるイエス様。待っていてくださるイエス様。そのイエス様を、今度は私たちが見つめるのです。苦しいときも、迷うときも、疲れたときも、「イエス様を見つめながら」歩んでいく。

 そして忘れてはいけないのは、私たちがイエス様を見つめる前から、イエス様が私たちを見ていてくださるということです。私たちが弱っているときも、立ち止まっているときも、なかなか前に進めないときも、イエス様は私たちを見捨てず、共にいてくださいます。だから、安心してもう一歩を歩むことができます。

「イエスを見つめながら」。この御言葉を心に刻み、私たちもそれぞれの生活の中で、イエス様を見つめながら、一歩一歩、信仰の道を歩んでまいりたいと思います。