9月20日 主日礼拝 メッセージ

ヨハネによる福音書21章1-14節 「待っていて下さる主」

 私たちは、毎日の生活の中で、疲れてしまうことがあります。一生懸命やっているのに、思うようにいかないことがあります。「こんなに頑張っているのに、どうしてうまくいかないのだろう」「もう少し頑張らなければ」と思っていても、心も体も疲れてしまって、何もしたくなくなることもあります。そして、そんなときには、「自分は何をしているのだろう」「自分はだめなのではないか」と、自分自身に失望してしまうこともあります。

 聖書に出てくる弟子たちも、そんな経験をしました。弟子たちは、イエス様と一緒に歩いてきました。イエス様の言葉を聞き、イエス様がなさったことを見てきました。けれども、イエス様が十字架にかけられたとき、弟子たちは恐ろしくなり、イエス様のもとから逃げてしまいました。そして、イエス様は復活されました。弟子たちは、復活されたイエス様に出会いました。今日の箇所は、復活されたイエス様に出会った弟子たちが、その後、ガリラヤの湖にいたときの出来事です。イエス様に出会ったのに、これからどうすればよいのか分からないままでした。だから、以前していた漁に戻っていったのです。ペトロが、「わたしは漁に行く」と言います。すると、ほかの弟子たちも、「わたしたちも一緒に行こう」と言って、舟に乗り込みました。ペトロたちは、もう一度、昔の仕事に戻ったようにも見えます。けれども、その夜は、何もとれませんでした。一晩中働いたのに、魚は一匹もとれませんでした。ここに、弟子たちの姿があります。イエス様を失い、そしてイエス様に出会った。それでも、これから自分たちはどうしたらよいのか、はっきり分からない。だから、とりあえず自分のできることをしてみる。けれども、そこでもうまくいかない。疲れている。そして、何もとれない。そんな弟子たちのところに、イエス様が来られます。

 聖書には、「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。」とあります。弟子たちは、イエス様にまだ気づいていません。一晩中、魚をとろうとしていました。網を投げても、魚が入らない。もう一度投げても、入らない。何度やっても、何もとれない。夜が明けてきました。そして、岸にはイエス様が立っておられました。私は、この場面を読むと、とても不思議な気持ちになります。イエス様は、弟子たちが魚をとっていることを知っておられたのでしょう。弟子たちが疲れていることも知っておられたでしょう。それなのに、イエス様はすぐに舟に乗り込んで、一緒に魚をとったわけではありません。岸に立っておられました。

 そして、弟子たちに声をかけられます。「子たちよ、何か食べる物があるか。」弟子たちは「ありません。」と答えます。この「ありません」という言葉には、弟子たちの疲れがにじんでいるように思います。「ありません。」魚もありません。自分たちの力で何とかしようとしても、何ともならない。何もできなかった。そんな弟子たちです。でも、大切なのは、そのような弟子たちのところに、イエス様が来てくださったということです。

 ここで、少し考えてみたいと思います。もし私たちがイエス様だったら、どうするでしょうか。「あなたたちは、何をしているのですか。」「どうして私を信じないのですか。」「一晩中魚をとって、一匹もとれなかったのですか。」そう言いたくなるかもしれません。弟子たちは、イエス様を裏切りました。ペトロは、「イエスなど知らない」と三度も言いました。弟子たちは、イエス様が十字架につけられたとき、イエス様と一緒にいることができませんでした。その弟子たちです。しかし、今日の聖書で、イエス様は弟子たちを責めません。「なぜ逃げたのか」「なぜ私を裏切ったのか」とは言われません。むしろ、「子たちよ、何か食べる物があるか」と声をかけられます。そして、魚がとれるように導かれます。弟子たちが岸に上がってみると、そこには、炭火があり、その上に魚がのせてあり、パンもありました。イエス様は、弟子たちが来るのを待って、食べるものまで用意してくださっていたのです。

 今日の説教の題は、「待っていてくださる主」です。イエス様は、弟子たちを待っていてくださいました。弟子たちは、迷っていました。疲れていました。失望していました。それを自分たちの力で何とかしようとしていました。けれども、イエス様はそんな弟子たちを見捨てませんでした。岸に立って待っていてくださいました。そして、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われました。疲れた弟子たちに、まず食べるものを用意してくださったのです。これは、私たちにとっても大切なことではないでしょうか。私たちも、いつも元気でいられるわけではありません。教会に来ていても、心の中では疲れていることがあります。人には言えない悩みを抱えていることもあります。何かを一生懸命やっているのに、うまくいかないこともあります。そして、「もうだめだ」「何をやっても仕方がない」と思ってしまうことがあります。そんな私たちに、イエス様は、「どうしてできないのか」とは言われません。「もっと頑張りなさい」とも言われません。むしろ、私たちが疲れたままでも、失望したままでも、立ち止まったままでも、そこにいてくださいます。待っていてくださいます。そして、「こちらに来なさい」と、私たちを招いてくださいます。弟子たちは、魚を一匹もとれませんでした。けれども、それで弟子たちの価値がなくなったわけではありません。何もとれなかった弟子たちを、イエス様は大切にしておられます。ここには、私たちが忘れてはいけないことがあります。

 私たちは、何かができたから愛されるのではありません。たくさん働いたから愛されるのでもありません。失敗しなかったから愛されるのでもありません。イエス様は、何もできなかった弟子たちを待っておられました。そして、何もできない弟子たちに、「食事をしなさい」と、パンと魚を与えてくださいました。それは、「あなたたちは、私にとって大切な人だ」というイエス様の愛そのものだったのではないでしょうか。私たちも、疲れたときには、無理をしなくてよいのです。失敗したときにも、イエス様から離れなくてよいのです。「こんな自分では、イエス様のところへ行けない」と思う必要はありません。むしろ、そんなときこそ、イエス様のところへ行けばよいのです。なぜなら、イエス様はそこで私たちを待っていてくださるからです。

 そして、この出来事は、弟子たちにとって新しい出発になりました。イエス様は、失敗した弟子たちを捨てませんでした。もう一度、弟子たちと食事をし、もう一度、弟子たちと関わってくださいます。ペトロは、この後、イエス様から大切な使命を与えられていきます。ペトロには失敗がありました。弟子たちにも失敗がありました。けれども、イエス様はその失敗で弟子たちの人生を終わらせませんでした。待っていてくださって、もう一度、立ち上がることができるようにしてくださいました。私たちの人生にも、失敗があります。「あのとき、こうすればよかった」と思うことがあります。「あんなことを言わなければよかった」と思うこともあります。そして、ときには自分自身に失望します。

 けれども、今日の聖書は教えてくれます。私たちが失望しているときにも、主は私たちを失望して見捨てることはない。私たちが疲れているときにも、主は私たちを待っていてくださる。私たちが何もできないときにも、主は私たちを大切にしてくださる。そして、時が来れば、「もう一度、ここから歩いていこう」と、私たちを立ち上がらせてくださるのです。そして、主が用意してくださった恵みをいただきながら、また一歩、主と一緒に歩んでいきましょう。