9月13日 主日礼拝 メッセージ
マタイによる福音書14章22-33節 「来てくださる主」
私たちは、人生の中で、「なぜこんなことが起こるのだろう」と思うことがあります。一生懸命にやっているのに、うまくいかない。「神様が導いてくださっているはずなのに、どうしてこんな事になるのだろう」と思うことがあります。今日の聖書に出てくる弟子たちも、まさにそのような状況に置かれていました。
22節を見ると、イエス様は弟子たちを舟に乗せ、「向こう岸へ先に行くように」と言われました。ですから弟子たちは、自分勝手に舟を出したのではありません。イエス様に言われたとおりに、舟に乗って湖へ出て行ったのです。ところが、湖の上で強い風が吹き、波に悩まされるようになります。夜になっても、弟子たちは舟の中で苦しみ続けていました。「イエス様に言われたとおりにしたのに、どうしてこんなことになったのだろう。」そんな思いが、弟子たちの中にあったのではないでしょうか。
ところが、その時です。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。」とあります。「イエス様は、なぜ湖の上を歩いて、弟子たちのところへ行かれた」のでしょうか。イエス様なら、舟に乗って行くこともできたでしょう。あるいは、嵐を静めてから弟子たちを助ける事も出来たでしょう。それなのに、イエス様は嵐の中、湖の上を歩いて弟子たちのところへ来られました。それは、ただ「水の上を歩く」という奇跡を見せるためだったのでしょうか。
私は、ここに、この物語の大切なメッセージがあると思います。今日は、この25節を中心に、「イエス様はなぜ、湖の上を歩いて弟子たちのところへ来られたのか」ということを、ご一緒に聴いていきたいと思います。
「イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところへ行かれた」イエス様は、湖の上を歩くことそのものを目的としておられたのではありません。イエス様が向かわれたのは、湖の上でも、岸でもありません。弟子たちのところです。弟子たちがいるところへ、イエス様は来られたのです。
しかも、その時の弟子たちは、決して安心できる状態ではありませんでした。強い風が吹いています。波に舟が揺さぶられています。夜が明けようとしているとはいえ、まだ暗い時間です。弟子たちは、恐れながら舟をこいでいました。そして、その舟に乗っている弟子たちを、イエス様は遠くからご覧になっていたのではないでしょうか。
弟子たちは、イエス様がどこにおられるのか分かりません。けれども、イエス様の方は、弟子たちを見ておられた。そして、弟子たちのところへ向かって来られたのです。ここに、私たちが忘れてはならないことがあります。
私たちが神様を見つけることができない時にも、神様の方では、私たちを見ていてくださるということです。私たちは、苦しい時になると、「神様はどこにおられるのだろう」と思うことがあります。祈っても答えがない。祈っても状況が変わらない。「神様、私のことを見てくださっているのでしょうか」と思うことがあります。
けれども、この物語は私たちに語りかけます。神様が見えないからといって、神様がおられないわけではない。弟子たちには、イエス様のお姿が見えていませんでした。けれども、イエス様は弟子たちを見ておられました。そして、弟子たちのところへ来てくださったのです。
26節にはこうあります。「弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声を上げた。」せっかくイエス様が来てくださったのに、弟子たちは、それがイエス様だと分かりませんでした。むしろ、怖くなってしまったのです。これは少し不思議な事のように思うかもしれません。イエス様は、弟子たちを助けるために来られたのです。ところが弟子たちは、そのイエス様を見て、さらに恐れました。
私たちも、同じようなことがあるのではないでしょうか。神様が私たちのところに来てくださっているのに、それに気づかないことがあります。苦しみの中にいると、私たちの目は、目の前の問題だけに向いてしまいます。「どうしよう」「これからどうなるのだろう」「この先、大丈夫だろうか」そう考えているうちに、すぐ近くまで来てくださっている神様に気づかなくなってしまいます。
しかし、イエス様は、そんな弟子たちを責めませんでした。27節でこう言われます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」「なぜ私だと分からないのか」とは言われませんでした。「そんなに怖がる必要はない」と責めるのでもありません。ただ、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と声をかけられました。イエス様が弟子たちのところへ来られた目的は、弟子たちを驚かせることではありません。恐れている弟子たちに、ご自分の存在を知らせ、安心を与えるためだったのです。
「イエスが、湖の上を歩いて弟子たちのところへ行かれた。」のです。弟子たちは、イエス様のところへ行くことができませんでした。嵐の中で、舟から降りることもできません。岸へ戻ることもできません。しかし、イエス様の方から来てくださったのです。これは、私たちの信仰についても、とても大切なことを教えているのではないでしょうか。私たちは、「もっと信仰を強くしなければ」「もっと一生懸命祈らなければ」「もっと神様に近づかなければ」と考えることがあります。もちろん、祈ることも、聖書を読むことも大切です。
しかし、私たちが神様に近づくこと以上に大切なのは、神様の方が、私たちに近づいてくださる。ということです。弟子たちがイエス様のところへ行ったのではありません。イエス様が弟子たちのところへ来られたのです。それは、私たちに対するイエス様の愛も同じです。私たちが元気な時だけではありません。心に余裕がある時だけでもありません。迷っている時、悲しんでいる時、恐れている時、どうしてよいか分からない時。そのような私たちのところへも、イエス様は来てくださいます。だから私たちは、「こんな自分では神様に近づけない」と思う必要はありません。むしろ、「今の私のところにも、イエス様は来てくださる」と信じることができるのです。
もう一つ、大切なことがあります。イエス様が弟子たちのところへ来られた時、まだ嵐は終わっていませんでした。風も吹いています。波もあります。イエス様は、嵐がすべて終わってから来られたのではありません。嵐のただ中に来られたのです。私たちは、「神様が助けてくださる」というと、問題そのものがなくなることを考えがちです。病気が治る。困ったことが解決する。心配していたことがうまくいく。もちろん、そういう形で神様が助けてくださることもあります。 しかし、この物語では、イエス様が来られた時点では、まだ嵐の中でした。それでも、イエス様が来られたことで、弟子たちは一人ではなくなりました。ここに大きな違いがあります。嵐があるか、ないかだけが問題なのではありません。その嵐の中に、困っている時に誰が共にいてくださるかが大切なのです。
人生には、私たちの力ではどうにもならない嵐があります。すぐには解決しない問題があります。祈っても、すぐには答えが見えないことがあります。けれども、その時にもイエス様は、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださいます。私たちが不安になっている時も、先が見えなくなっている時も、自分の力ではどうにもならないと思う時も、イエス様は遠くから「頑張りなさい」と言われるだけのお方ではありません。「あなたがわたしのところへ来られない時にも、わたしはあなたのところへ行く。」これが、イエス様の愛なのではないでしょうか。
イエス様は、なぜ湖の上を歩いて弟子たちのところへ行かれたのでしょうか。それは、弟子たちに水の上を歩く奇跡を見せるためではありません。恐れている弟子たちのところへ行き、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と、ご自身が共におられることを伝えるためでした。その声を、私たちが嵐の中にいる時にも聞きたいと思います。

