9月6日 主日礼拝 メッセージ
ルカによる福音書19章1-10節 「名前を呼ばれる」
私たちは、たくさんの人がいる中で、自分のことを誰かが見つけてくれた、声をかけてくれたという経験があるでしょうか。今日の聖書には、イエス様とザアカイという人との出会いが記されています。ザアカイは、背が低かったため、イエス様を見ることができず、木に登っていました。ところが、イエス様はそのザアカイを見つけてくださったのです。
そして、5節でイエス様はこう言われます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」大勢の人の中にいたザアカイを、イエス様は見過ごされませんでした。イエス様は、ザアカイを見つめ、その名前を呼び、そして「あなたのところへ行きたい」と声をかけられたのです。今日は、この5節の言葉から、私たち一人ひとりに向けられているイエス様のまなざしについて、ご一緒に考えてみたいと思います。
まず、ザアカイは、なぜイエス様を見たいと思ったのでしょうか。聖書には、その理由が詳しく書かれているわけではありません。ただ、ザアカイについては、少し前の18章に、あるヒントがあります。ザアカイは徴税人の頭で、金持ちでした。当時、徴税人は人々から嫌われていました。税金を集める仕事をしていたからです。しかも、必要以上に取り立てて、自分の利益にしていた人もいました。
ザアカイも、町の人々からは、「あの人とは関わりたくない」と思われるような人だったのかもしれません。お金はあっても、心の中には寂しさがあったのではないでしょうか。そんなザアカイのところに、イエス様のうわさが届きました。「イエスという人が来るらしい。」その話を聞いたとき、ザアカイの心に何かが動いたのではないでしょうか。「どんな人なのだろう。見てみたい。」聖書は、その思いを否定していません。むしろ、その小さな「見てみたい」という思いが、イエス様との出会いにつながっていきます。
これは、私たちの教会にも通じることではないでしょうか。普段はキリスト教に触れることのない人が、ある日、ふと教会に行ってみようと思うことがあります。「聖書を読んでみたい」「礼拝に出てみたい」「教会というところはどんなところだろう」と思うことがあります。
もちろん、その理由は人それぞれでしょう。人生の中で何かを求めている人もいるでしょう。悩みを抱えている人もいるでしょう。誰かに誘われたから来る人もいるでしょう。あるいは、はっきりした理由はなくても、「一度行ってみようかな」と思う人もいます。しかし、私たちは、その「行ってみようかな」という思いを、ただの偶然として片づけなくてもよいのではないでしょうか。
もしかすると、その人の心の中に、神様がそっと与えてくださった「見てみたい」という思いがあるのかもしれません。ザアカイも、最初から「イエス様を信じよう」と思っていたわけではありません。ただ、「イエス様を見たい」と思ったのです。そして、木に登りました。
ところが、ここから、この物語は大きく変わります。ザアカイは、自分がイエス様を見ようとしていたと思っていました。しかし実際には、イエス様のほうが先にザアカイを見つけてくださったのです。5節には、「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』」とあります。イエス様の目には、大勢の群衆の中にいるザアカイが見えていました。これは、とても大切なことだと思います。
その日、イエス様の周りにはたくさんの人がいました。イエス様を見たい、イエス様の話を聞きたいという人が大勢いたでしょう。その中で、イエス様はザアカイに目を向けられました。なぜでしょうか。ザアカイが立派な人だったからではありません。町の人々から尊敬されていたからでもありません。信仰深い人だったからでもありません。むしろ、ザアカイは人々から嫌われている人でした。けれども、イエス様は、ザアカイの外側だけを見ておられませんでした。
人々が「あの人は徴税人だ」「罪深い人だ」と見ていたその人を、イエス様は一人の人間として見ておられました。そして、名前を呼ばれました。
「ザアカイ。」この名前を呼ばれた瞬間、ザアカイはどんな気持ちだったでしょう。自分を嫌っている人たちの中で、自分の名前を呼んでくれる人がいる。自分を避ける人たちの中で、自分に声をかけてくれる人がいる。「あなたを見ているよ。」「あなたのことを知っているよ。」そんなイエス様の思いが、「ザアカイ」という一言に込められているように思います。
そして、イエス様は、「急いで降りて来なさい」と言われます。これは、ただ木から降りなさいという意味だけではないでしょう。ザアカイは木の上から、遠く離れたところでイエス様を見ようとしていました。
しかし、イエス様は、「そこから降りて、こちらに来なさい」と招かれたのです。私たちも、ときどき木の上にいるようなことがあるのではないでしょうか。人と少し距離を置いて、遠くから物事を見ている。
教会についても、「私は信仰がないから」「聖書のことはよく分からないから」と、少し離れたところから見ている。けれども、イエス様は、その私たちにも、「そこから降りて来なさい」と声をかけてくださるのではないでしょうか。「分からなくてもいい。」「今のあなたのままでいい。」「遠くから見ているだけではなく、私のところに来なさい。」そう招いてくださっているのです。
そして、さらにイエス様は驚くような言葉を続けられます。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」イエス様は、「もっと立派な人になったら、あなたのところへ行こう」とは言われませんでした。「悔い改めて、良い人になったら、あなたの家に行こう」とも言われません。
今のザアカイのところへ行こうと言われたのです。「あなたの家に泊まりたい。」それは、ザアカイの人生の中に、イエス様ご自身が入ってくださるということです。家というのは、その人の生活そのものです。人前では見せない自分の姿があります。家族との関係もあります。嬉しいことも、悲しいこともあります。誰にも知られたくないこともあるでしょう。イエス様は、その「家」に入ろうとされたのです。
これは、今日の私たちにも向けられている言葉ではないでしょうか。イエス様は、私たちにも、「あなたのところへ行きたい。」「あなたの生活の中に入りたい。」「あなたの喜びも悲しみも、一緒に担いたい。」と声をかけてくださっているのです。私たちは、「もう少し信仰が強くなってから」「もっと聖書が分かるようになってから」と考えるかもしれません。しかし、イエス様は、私たちが準備を整えてから来られるのではありません。
ザアカイが木の上にいた、その時に声をかけられました。まだ何も変わっていないザアカイに、「降りて来なさい」と言われました。まだ罪人として見られていたザアカイに、「あなたの家に泊まりたい」と言われました。だからこそ、私たちも安心してよいのです。
今日、教会に来ている私たち一人ひとりにも、イエス様は声をかけてくださっています。「あなたを見ているよ。」「あなたの名前を知っているよ。」「そこから降りて来なさい。」「あなたのところへ行きたい。」ザアカイは、最初はただ「イエス様を見たい」と思っただけでした。
しかし、その「見たい」という小さな思いを通して、イエス様のほうからザアカイを見つけてくださいました。そして、ザアカイの人生はそこから変わり始めました。私たちがイエス様を求めるよりも先に、イエス様が私たちを求めてくださっている。私たちがイエス様を見つけるよりも先に、イエス様が私たちを見つけてくださっている。そして今日も、私たち一人ひとりの名前を呼んでくださっているのです。

