8月30日 主日礼拝 メッセージ

詩編1編1-6節 「永遠のメッセージ」

 皆さんは、子どもの頃に聞いた言葉や、昔誰かから言われた言葉を、今でも覚えていることはないでしょうか。「人には親切にしなさい」「困っている人がいたら助けてあげなさい」「失敗しても、あきらめてはいけない」その時には何気なく聞いていた言葉が、何年もたってから、「あの時言われたことは、こういうことだったのか」と心に響くことがあります。言葉には、時代を越えて人の心に届く力があります。 聖書もそうです。何千年も前に書かれた言葉ですが、そこに書かれている人の喜びや悲しみ、迷いや不安は、今を生きる私たちにも通じるものがあります。

 今日の詩編1編も、そんな時代を越えて語りかける言葉の一つです。その中でも、特に心に留めたいのが3節です。「その人は、流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。」神様を信じて生きる人を、流れ、水のほとりに植えられた一本の木にたとえています。私たちの人生にも、順調な時があれば、苦しい時、心も体も疲れてしまう時があります。そんな私たちが、どこから力をいただき、どのように生きていくのか。今日は、この「流れのほとりに植えられた木」という姿を心に描きながら、詩編1編が今の私たちに語りかけている「永遠のメッセージ」に耳を傾けたいと思います。

 では、3節の御言葉を、もう少し丁寧に見ていきたいと思います。「その人は、流れのほとりに植えられた木。」ここでいう「その人」とは、どのような人でしょうか。1節と2節を見ると、それは神様の言葉を大切にして生きる人です。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ。」つまり、流れのほとりに植えられた木とは、特別な人や、何でもできる立派な人ではありません。神様の言葉を心に受け、神様につながって生きようとする人です。そして、ここで大切なのが「植えられた」という言葉です。木は、自分で自分を植えることはできません。誰かによって植えられ、そこで根を張り、育っていきます。私たちも、自分の力だけで今の自分になったのではありません。多くの人との出会いや支えがあり、そして信仰においては、そのすべての根に神様がおられます。神様が私たちをこの場所に置き、ここで生きる力を与えてくださっている。それが「植えられた木」という言葉に表れているのではないでしょうか。

 では、私たちが流れのほとりの木のようになるには、どうすればよいのでしょう。2節が答えを与えています。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ。」神様の言葉につながって生きることです。「神様は私を愛してくださっている。」「あなたは一人ではない。」「人を愛しなさい。」そうした神様の言葉を心に置いて生活することです。聖書を読む。礼拝に出る。祈る。讃美歌を歌う。そうした一つ一つを通して、私たちの根が神様の方へ伸びていくのです。

 ここで、木のことをもう一度考えてみましょう。木の根は、私たちの目には見えません。けれども、見えないところで水を吸い上げています。そして、その水が幹を通り、枝へ、葉へと届いていきます。私たちの信仰も、少し似ているのではないでしょうか。礼拝に出たからといって、その場ですぐに何かが変わるわけではありません。聖書を読んだからといって、次の日から悩みがなくなるわけでもありません。祈ったからといって、すぐに答えが分かるわけでもありません。けれども、目には見えなくても、神様の言葉は私たちの中にしみ込んでいきます。そして、ある時ふと、「あの時聞いた言葉に支えられた」と気づくことがあります。それが、根が水を受けているということなのかもしれません。

 そして3節は、「ときが巡り来れば実を結び」と続きます。ここには、「すぐに」ではなく、「ときが巡り来れば」とあります。木は、種を植えた次の日に実を結ぶわけではありません。根を張り、枝を伸ばし、葉を茂らせ、時間をかけて、やがて実を結びます。私たちの人生も同じです。すぐに結果が出なくてもよいのです。神様の言葉を受けながら、少しずつ成長していけばよい。けれども、「実を結ぶ」と言われても、自分ではその実が見えないことがあります。「自分は何も変わっていない」「信仰が深くなったとも思えない」「神様のために何かできているわけでもない」そう思うこともあるでしょう。

 しかし、木は自分で自分の実を見ることができません。木が自分で、「今年はこんなに実を結びました」と数えるわけではありません。同じように、私たちの人生の実も、自分では気づかないところに結ばれていることがあります。何気なくかけた言葉が、誰かの支えになっていた。以前なら腹を立てていたことを、少しだけ待てるようになった。誰かの痛みに気づけるようになった。「ありがとう」と言えるようになった。誰かのために祈れるようになった。それは、自分では大したことではないと思うかもしれません。でも、神様からいただいた愛が、私たちの生き方を通して実を結んでいるのです。だから、私たちは実を急がせるのではなく、まず根を張ることが大切です。神様の愛を受ける。神様の言葉を聞く。祈る。そこから、私たちの中に少しずつ実が結ばれていきます。

 そして、「葉もしおれることがない」とあります。ここも、私たちには少し不思議な言葉です。私たちは時々、「自分の葉はしおれている」と感じるからです。疲れている。元気が出ない。祈る力もない。教会に来ても心が動かない。神様を近くに感じられない。そんな時があります。では、そんな時、私たちはもう「流れのほとりの木」ではなくなってしまったのでしょうか。そうではありません。葉がしおれているように見える時にも、根は水を受けているのです。木は、季節によって見た目が変わります。葉が少なくなる時もあります。外から見れば、元気がないように見える時もあります。しかし、根が生きていれば、また新しい芽が出ます。「葉もしおれることがない」というのは、「一度も弱らない」という意味ではないのだと思います。むしろ、弱る時があっても、根まで枯れてしまわない。神様とのつながりが失われない。神様の恵みが、私たちを支え続けている。そのことを語っているのではないでしょうか。私たちは、自分では「しおれてしまった」と思う時にも、神様の目から見れば、根は生きているのです。だから、元気が出ない自分を責めなくてもよい。祈れない時には、「神様、助けてください」と一言祈るだけでもよい。御言葉が心に入ってこない時でも、礼拝の中に身を置いているだけでもよい。流れのほとりに植えられた木は、自分で水を作る必要はありません。水路から水を受ければよいのです。私たちも、自分の力だけで自分を元気にする必要はありません。神様のもとに戻っていけばよいのです。

 そして、ここで「永遠のメッセージ」という主題に戻ります。この言葉は、何千年も前に語られました。しかし、人間の心は今も昔も、それほど変わりません。愛されたい。安心したい。支えてほしい。苦しい時には、もう一度立ち上がりたい。そして、自分の人生に意味があるのだろうか、自分は何を残せるのだろうかと考えます。だから、「流れのほとりに植えられた木」という言葉は、今も私たちの心に届きます。そして私たちに、「神様につながっていなさい。」「根を張りなさい。」「時を待ちなさい。」「そして、実を結びなさい。」と語りかけています。

 この御言葉は、私たちの人生だけで終わりません。私たちが神様の言葉を受け、その言葉によって生きる時、その生き方そのものが、次の人へ、そして次の世代へと伝わっていきます。何千年も前の御言葉が今日の私たちに届き、今日私たちが受け取った御言葉が、また誰かの心に届いていく。だからこそ、この3節は、時代を越えて語り続けられる「永遠のメッセージ」なのです。今日、心に留めたい言葉は、「神様につながって、実を結ぶ。」です。最初から神様を知っていた人も、人生の途中で神様に出会った人も、今日初めて神様の言葉に耳を傾けた人も、神様のもとに根を張ることができます。すぐに実を結ばなくてもいい。自分では実が見えなくてもいい。自分では葉がしおれていると思う時にも、神様は根を守ってくださっている。だから私たちは、神様の愛を受けながら、根を張り、時を待ち、歩んでいきたいと思います。そして、神様が与えてくださる時に、私たちの人生にも、誰かを生かし、誰かを励まし、誰かを愛する「実」が結ばれていくのです。それが、今日の私たちに与えられた、永遠のメッセージなのです。