8月23日 主日礼拝 メッセージ

マタイによる福音書11章25-30節 「イエスの招き」

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。

 今日の御言葉の中で、イエス様はこのように呼びかけておられます。私たちは、毎日の生活の中で、いろいろなものを背負いながら生きています。仕事や家庭のこと、人との関係、これからのことへの心配。自分ではどうすることもできない出来事を抱えて、心が重くなることもあります。外から見ると元気にしていても、心の中では、「ちょっと疲れたな」「もう少し休みたいな」と思うこともあるでしょう。あるいは、「もう少し頑張らなければ」と自分を励まして、無理をしてしまうこともあります。 けれども、イエス様は、疲れた私たちに「もっと頑張りなさい」とは言われません。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」「元気になってから来なさい」とも、「問題を解決してから来なさい」とも言われません。疲れたまま、重荷を負ったまま、そのままの私たちを招いてくださっているのです。

 では、「疲れた者、重荷を負う者」とは誰のことでしょうか。特別な人ではありません。私たち一人ひとりです。体が疲れることもあります。心が疲れることもあります。人のために頑張り続けて疲れることもあります。さらに私たちには、人の目を気にするという重荷もあります。「自分はどう思われているだろう。」「嫌われたくない。」「もっと認めてもらいたい。」そんな思いから、人の期待に応えようと頑張り続けることがあります。誰かに褒められると安心する。でも、否定されたり、認めてもらえなかったりすると、不安になる。人に支えてもらうことは大切です。しかし、誰かに認めてもらわなければ安心できない、誰かに分かってもらわなければ前に進めないとなると、それも私たちの心を重くする重荷になります。そして、疲れてくると、心に余裕がなくなります。「私はこんなに頑張っているのに、誰も分かってくれない。」「どうして自分ばかり大変なのだろう。」気がつけば、自分のことばかりを考え、人のことを見る余裕がなくなってしまう。これは、私たちの誰にでも起こり得ることではないでしょうか。

 しかし、イエス様は、その私たちに「もっと人に認めてもらいなさい」とは言われません。「わたしのもとに来なさい」と言われます。ここが大切なのです。私たちは疲れると、人の評価を気にすることで自分を支えようとすることがあります。「認めてもらえれば大丈夫。」「この人に嫌われなければ大丈夫。」「この人が自分を分かってくれれば大丈夫。」そうやって、人からもらう評価や安心に自分の心を支えてもらおうとします。

 けれども、それはどこまでも続くものではありません。人の気持ちは変わります。評価も変わります。どれだけ頑張っても、すべての人に認めてもらうことはできません。だからこそイエス様は、「人のところではなく、まずわたしのもとに来なさい」と招いてくださるのです。「主よ、私は疲れています。」「人にどう思われているかが気になります。」「嫌われるのが怖いです。」「もっと認めてもらいたいと思っています。」そんな祈りでもいいのです。きれいな言葉でなくてもいい。立派な祈りでなくてもいい。そのままの気持ちをイエス様の前に置く。それが、「わたしのもとに来なさい」という招きに答えることなのです。

 そしてイエス様は、「休ませてあげよう」と言われます。けれども、これは、祈れば明日から何もかも変わる、という意味ではありません。明日になれば、会いたくない人にも会わなければならないかもしれません。やりたくない仕事を、またしなければならないかもしれません。人間関係の問題も、何も変わっていないかもしれません。「神様、どうしてですか」と祈っても、答えが聞こえてこないこともあります。

 では、イエス様は何をしてくださるのでしょうか。それは、重荷があるままの私たちと一緒にいてくださることです。変わらない現実の中に、イエス様も一緒にいてくださる。誰かに認めてもらえなくても、イエス様は私たちを知っていてくださる。だから祈りとは、ただ「状況を変えてください」と願うことだけではありません。「主よ、この状況の中で私と一緒にいてください。」「人の目ばかり気にしてしまう私を支えてください。」そう祈ることも、イエス様のもとに行くことなのです。そして、その祈りの中で、「私は神様に愛されている。」そう思えるようになり、安心できる。それが、イエス様がくださる「休み」なのではないでしょうか。

 イエス様と共にいると、私たちの見方も少しずつ変えられていきます。「この人は私をどう思っているだろう」と考えていたところから、「この人は今、何を必要としているのだろう」と考えられるようになる。「私はどう評価されるだろう」と心配するところから、「神様が喜ばれることは何だろう」と考えられるようになる。「この人に認めてもらわなければ」と思っていたところから、「私は神様に愛されているのだから、この人にも愛を向けていこう」と思えるようになる。そこに、イエス様と共に歩む者の変化があるのです。

もちろん、すぐに変わるわけではありません。また人の目が気になることもあります。また誰かの言葉に傷つくこともあります。それでも、そのたびにイエス様のもとに帰ればいいのです。

 

 そして、29節でイエス様は、「わたしの軛を負い、私に学びなさい」と言われます。イエス様は、「重荷を全部置いて、あとは好きなように生きなさい」と言われているのではありません。「わたしと一緒に歩きなさい。」「わたしに学びなさい。」と招いておられるのです。相手が変わらないからといって、あなたの祈りが聞かれていないのではありません。すぐにその人が変わらなくても、イエス様は、その人と向き合っているあなたを支えておられます。人から「よくやっている」と言ってもらえなくても、神様はあなたの歩みを知っておられます。誰かに認めてもらえない日にも、あなたは神様に愛されている大切な一人です。 だから、「もっと頑張って認めてもらわなければ」と自分を追い込まなくていいのです。そんなとき、イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい。」と言ってくださいます。「あなたは一人ではない。」「全部を一人で背負わなくていい。」「わたしが一緒にいる。」そう言ってくださるのです。

 ですから、疲れたときには、イエス様のもとへ行きましょう。「主よ、今日も疲れました。」「人の目が気になって苦しかったです。」「認めてもらえなくて悲しかったです。」そう祈っていいのです。そして、イエス様に支えていただいたなら、また人のいるところへ帰っていきましょう。人からどう見られるかではなく、神様に愛されている者として、人と向き合っていくのです。私たちは疲れると、自分のことしか見えなくなることがあります。しかしイエス様のもとで休むとき、少しずつ人の評価から自由にされ、もう一度、隣にいる人を見ることができるようになります。

 今度は私たちも、誰かの疲れや重荷に寄り添う者になっていく。それが、イエス様の招きに答えて生きるということではないでしょうか。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」人の目が気になったときも、人から認めてもらえず苦しくなったときも、イエス様のもとへ行きましょう。「私は、人にどう思われるかによって生きるのではない。神様に愛されている者として生きる。」そのことを心に覚えながら、今日も、明日も、その次の日も、イエス様と共に歩んでいきたいと思います。