8月16日 主日礼拝 メッセージ
詩編30編1-6節 「神の癒し」
皆さんは、「癒される」と聞くと、どのようなことを思い浮かべるでしょうか。病気が治ること。けがが回復すること。痛みがなくなること。もちろん、それも大切な癒しです。しかし、私たちが生きている現実を見ると、「癒されたい」と願っても、すぐには癒されない苦しみが数多くあります。
熊本地震から数日が過ぎました。しかし、今なお「あの日」で時間が止まったような思いで暮らしておられる方がおられます。家族を失った悲しみ。住み慣れた家を失った喪失感。将来への不安。目には見えない心の傷。復興が進んでいるように見えても、一人ひとりの心の復興には、もっと長い時間が必要です。また、私たちの身近にも、病気と闘っておられる方がおられます。入院生活が続いている方。治療を続けながら生活している方。思うように体が動かず、「以前のように動けたら」と願っておられる方。痛みや不安を誰にも言えず、一人で抱えておられる方。さらに、体は健康でも、心が疲れ切っている人もいます。家族の介護に追われている人。仕事や人間関係に悩み、「もう頑張れない」と感じている人。将来が見えず、不安の中にいる人。私たちは皆、それぞれに「癒されたい」と願うものを抱えて生きています。
では、聖書が語る「神様の癒し」とは、一体何なのでしょうか。神様を信じれば、すべての病気が治るということなのでしょうか。苦しみがすべてなくなるという約束なのでしょうか。実は、詩編30編を書いたダビデも、苦しみのない人生を歩んだ人ではありませんでした。だからこそ彼は、「主よ、わたしは叫び求めました」と告白しています。苦しみがあった。涙があった。どうにもならない現実があった。しかし、その中で神様に向かって叫び続けました。そして、「主はわたしを癒してくださいました」と証ししているのです。今日は、この「神様の癒し」とは何なのかを共に聴いていきたいと思います。詩編30編3節には、「わたしの神、主よ、叫び求めるわたしをあなたは癒してくださいました。」とあります。ダビデは最初から癒されたわけではありません。最初にしたことは、「叫び求める」ことでした。この「叫ぶ」という言葉は、静かに祈るというよりも、「助けてください」と心の底から神様を呼び求める姿です。
子どもが転んだ時、「お母さん!」と叫ぶように、自分の力ではどうにもならない時、人は一番信頼している人を呼びます。ダビデも、自分ではどうすることもできない苦しみの中で、神様に向かって叫びました。もしかすると、私たちは苦しくなると、反対のことをしてしまうことがあります。「こんなことくらい自分で乗り越えなければ。」「人に迷惑をかけてはいけない。」「神様も忙しいだろうから。」そう思って、一人で抱え込んでしまいます。 しかし聖書は、「まず神様のところへ来なさい」と語ります。イエス様も、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)と言われました。この個所は来週の聖書箇所でもあります。神様は、強い人だけを助ける方ではありません。助けを求める人を迎え入れてくださる方なのです。
では、神様の癒しとは何でしょうか。ここで一つ、大切なことがあります。聖書の「癒し」は、「病気が必ず治る」という意味だけではありません。もちろん、神様は病を癒す力を持っておられます。イエス様は福音書の中で、多くの病人を癒されました。しかし、それ以上にイエス様が与えられたのは、「希望」でした。絶望していた人に希望を与え、孤独だった人に寄り添い、罪に苦しむ人を赦し、「あなたは一人ではない」と語ってくださいました。神様の癒しとは、神様が共にいて下さることによって、心が回復していくことなのです。
熊本地震の後、東日本大震災や阪神淡路大震災の時もそうだったでしょうが、多くの方が「もう何も残っていない」と思われました。家を失い、家族を失い、仕事を失い、先の見えない生活を送られました。しかし、その中で教会が炊き出しをし、ボランティアが泥をかき出し、多くの人が「忘れていませんよ」と寄り添いました。その時、多くの被災者が口にしたのは、「家はまだ建っていないけれど、人の温かさに支えられた。」という言葉でした。もちろん家が建つことも大切です。しかし、それ以上に、「一人ではない。」そう思えたことが、人々の心を支えたのです。これも神様の癒しの一つではないでしょうか。神様は、人を通して慰めを届けてくださるお方でもあります。 病気も同じです。病気が治ることを私たちは祈ります。それは決して間違った祈りではありません。しかし、たとえ病気がすぐに治らなかったとしても、「神様が共にいてくださる。」このことは決して失われません。「もう一人ではない。」その安心が、生きる力になるのです。これが神様の癒しです。
詩編30編6節には、このような有名な言葉があります。「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」夜は長く感じます。苦しみの中にいる時は、「このままずっと続くのではないか。」そう思ってしまいます。しかし、どんなに長い夜にも朝があります。神様は、「夜がない」とは言われませんでした。「朝を迎えさせる」と約束されたのです。ダビデは、その朝を経験しました。だから、「あなたは癒してくださいました」と感謝しているのです。
私たちも、今すぐには答えが見えないことがあります。祈っても状況が変わらないことがあります。しかし神様は、その祈りを決して無駄にはされません。苦しみの中にあっても共に歩み、やがて新しい朝へと導いてくださいます。では、神様に癒された私たちは何ができるのでしょうか。病気を治すことはできません。地震で壊れた町を一人で元に戻すこともできません。しかし、寄り添うことはできます。祈ることはできます。話を聞くことはできます。「あなたは一人ではありません。」そう伝えることはできます。
パウロは、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」と勧めています。ペスタロッチ保育園でも大切にしている言葉です。神様は、私たちを慰めてくださるだけでなく、その慰めを他の人へ届ける器としても用いてくださいます。誰かの涙のそばに座ること。励ましの手紙を書くこと。病床にある方のために毎日祈ること。被災地を忘れずに献金を続けること。それら一つ一つを通して、神様はご自身の癒しを届けてくださいます。
詩編30編のダビデは、「私は自分の力で立ち直りました」とは言いませんでした。「主よ、叫び求めるわたしを、あなたは癒してくださいました。」この信仰の告白で締めくくっています。私たちも人生の中で、涙の夜を経験します。熊本地震のような大きな災害、病気や老い、大切な人との別れなど、自分ではどうすることもできない出来事に直面します。そのような時こそ、神様は「一人で耐えなさい」とは言われません。「わたしに叫び求めなさい」と招いておられます。
そして、私たちがそのような苦しみの中で心を向けるお方こそ、主イエス・キリストです。私たちの力ではどうすることもできない時にも、主イエスは私たちのそばにいてくださいます。病気の時にも、悲しみの時にも、不安な時にも、私たちの手を離すことなく、共に歩んでくださいます。だからこそ、私たちの望みは、自分の力や、いつか状況が良くなるということだけにあるのではありません。どのような時にも共にいてくださる「主イエスこそわが望み」なのです。そして、主は私たちの苦しみを受け止め、共に歩み、やがて喜びの朝へと導いてくださいます。その神様の癒しを受けた私たちもまた、苦しむ人々のそばに立ち、神様の慰めと希望を届ける者として遣わされていきたいと思います。
これから歌う讃美歌21の531番は、「主イエスこそわが望み」という讃美歌です。今日、私たちが覚えたいのは、「苦しみがなくなれば希望がある」ということではありません。苦しみのただ中にも、私たちと共にいてくださる主イエスがおられる。その主イエスこそ、私たちの望みなのです。
病気の中にある方にも、災害の傷を抱えている方にも、悲しみの中にある方にも、主イエスが共にいてくださいます。そのことを信じて、私たちも「主イエスこそわが望み」と歌いたいと思います。その時、私たち自身もまた、神様の平安に包まれ、安心して今日も明日も歩み続けることができるのです。

