8月9日 主日礼拝 メッセージ

コリントの信徒への手紙Ⅱ5章17-20節 「和解の務め」

 皆さんは、8月9日という日がどのような日か、ご存じのことと思います。1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下されました。多くの尊い命が奪われ、生き残った方々も長い年月にわたって苦しみを背負ってこられました。毎年8月になると、私たちは戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて覚えます。しかし、戦争について考えるとき、私たちは「国」や「政治」の問題として考えることが多いのではないでしょうか。

では、「教会」はどうだったのでしょうか。実は、日本基督教団には「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」という文書があります。この告白には、このような言葉があります。「『世の光』『地の塩』である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。」さらに、「わたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。」と、自らの過ちを率直に認めています。これは、自分たちを責め続けるための言葉ではありません。過去を忘れず、同じ過ちを二度と繰り返さないために、神の前で悔い改め、新しく歩み始める決意の告白です。

 なぜ教会は、このような告白をしたのでしょうか。その答えは、今日の聖書、コリントの信徒への手紙二5章17~20節にあります。パウロは、「キリストと結ばれる人は、新しく創造された者」であり、神はキリストによって私たちをご自分と和解させ、「和解の務め」を私たちに委ねられたと語ります。神との和解を与えられた教会は、自らの罪や過ちを隠すのではなく、神の前に正直に認め、赦しをいただき、新しく歩み始める群れでなければなりません。そして、その赦しを受けた者として、この世界に和解と平和をもたらす使命を与えられています。

 今日は、長崎に原爆が投下されたこの日に、コリントの信徒への手紙二5章17~20節の御言葉に耳を傾けながら、日本基督教団の戦争責任告白が私たちに何を語りかけているのか、そして私たちの教会は今日、どのように「和解の務め」を果たしていくべきなのかをご一緒に考えてまいりたいと思います。

 パウロは17節で、このように語ります。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」この御言葉は、一人の信仰者について語っているだけではありません。キリストを頭とする教会もまた、この御言葉の前に立つよう招かれています。教会は、いつの時代も神に導かれる群れですが、決して間違いを犯さない完全な集まりではありません。そこに集うのは、赦された罪人たちです。だから教会もまた、自らの歩みを絶えず神の御言葉によって吟味し、悔い改めることが求められています。

 戦争中、日本基督教団はそのことが十分にできませんでした。教団の告白には、こう記されています。「『世の光』『地の塩』である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。」これは、とても重い言葉です。イエス様は、弟子たちに向かって「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と言われました。塩は、食べ物が腐ることを防ぎます。光は、暗闇を照らします。教会は、社会が誤った方向へ進もうとするとき、神の御言葉によって「それは違います」と語る使命を与えられています。しかし戦争中、その使命を十分に果たす事が出来ませんでした。教団の告白はさらにこう続きます。「わたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。」読むだけでも胸が痛みます。「教会がそのようなことをしていたのですか」と驚かれる方もおられるでしょう。しかし、この告白が語っているのは、「昔の人は悪かった」ということではありません。「教会もまた、神よりも時代の流れを恐れ、人々の声を恐れ、神の御言葉を十分に語ることができなかった」ということです。

それは、決して戦争中だけの問題ではありません。教会はいつの時代にも、「神に従うのか、それとも時代の空気に流されるのか」という問いの前に立たされています。だからこそ、この告白は今も読み継がれているのです。

 では、このような過ちを犯した教会に対して、神はどのように語られるのでしょうか。もし神が、「あなたがたは失格だ。もう教会として用いない」と言われたなら、私たちには何の希望もありません。しかし、今日の聖書は、そのようには語りません。18節には、「神はキリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解の為に奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」とあります。ここで大切なのは、「神がまず和解してくださった」ということです。私たちが神と和解したのではありません。神の方から、キリストによって私たちに近づいてくださいました。

 私たちが罪を悔い改める前から、神はキリストの十字架によって赦しの道を備えてくださったのです。だから教会は、自分たちの過ちを隠す必要がありません。「失敗していない」と言い張る必要もありません。神が赦してくださるからこそ、教会は自らの罪を正直に告白することができます。それが悔い改めです。悔い改めとは、自分を責め続けることではありません。神の赦しを信じて、新しい歩みを始めることです。だから、日本基督教団のこの告白も、過去を責め続けるための文書ではありません。神の赦しを信じ、「二度と同じ過ちを繰り返さない」という決意を表した告白なのです。

 そしてパウロは最後に、「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」と語ります。さらに、「わたしたちはキリストの使者なのです。」とも言います。「使者」とは、自分の言葉ではなく、遣わした方の言葉を伝える者です。教会は、自分たちの考えや都合を語る場所ではありません。キリストが何を願っておられるのかを、この世界に伝えるために遣わされています。その中心にあるのが、「和解」です。神との和解。人との和解。そして、平和をつくる歩みです。

 今日は8月9日です。長崎で原子爆弾によって多くの命が奪われた日です。世界に目を向ければ、今も戦争や武力による争いは終わっていません。だからこそ、私たちは「戦争は悲しいですね」と言うだけでは終わることはできません。神は教会に、「和解の務め」を委ねられました。その務めは、国際会議の場だけで果たされるものではありません。私たちの日々の生活の中から始まります。家庭で、職場で、学校で、そして教会で。相手を赦すこと。自分の過ちを認めること。「ごめんなさい」と言う勇気を持つこと。そして、「赦します」と応えること。その小さな一歩の積み重ねが、神の平和への道につながっていきます。

 日本基督教団の告白は、最後に希望をもって結んでいます。「教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明する。」この「明日に向かっての決意」は、1967年の教会だけのものではありません。2026年を生きる私たちにも託されている決意です。

 神は、キリストによって私たちをご自分と和解させてくださいました。だから私たちもまた、和解の務めを委ねられた者として歩んでまいりましょう。過去から学び、神の赦しに支えられながら、この世界にキリストの平和を証しする教会として歩んでいきたいと思います。