8月2日 主日礼拝 メッセージ
マタイによる福音書5章3-9節 「平和をつくろう」
この二週間、私たちは「平和」というテーマについて続けて御言葉に耳を傾けてきました。先々週は、ヘブライ人への手紙12章14節から、「平和を求める」という題で、平和は自然に手に入るものではなく、自ら求め、追い求めていくものであることを学びました。
そして先週は、イザヤ書48章18節から、「平和の波」という題で説教しました。神様の御言葉に聞き従うなら、その平和は川のように絶えることなく流れ、波のように次々と広がっていくという約束が語られていました。実は先週、保育園の合同礼拝でも、この「平和の波」のお話をしました。子どもたちにも分かるように、ブルーシートを川や海の波に見立てて、「神様がくださる平和は、川のように流れ、波のように広がっていくんだよ」と体験しながらお話ししました。その礼拝の最初に、以前みんなに話した「シャローム」という言葉を覚えているかな、と尋ねました。もう何か月も前に話したことでしたので、私は「覚えている子はいるだろうか」と思っていました。すると年中の子がすぐに「心が温かくなること!」と答えてくれたのです。私は本当にうれしくなりました。そして、その礼拝から数日後の朝、今度は年長の子が私の顔を見るなり、「シャローム!」と笑顔であいさつしてくれました。私は、礼拝で語るたびに、「子どもたちにどれだけ伝わっているのだろう」と思うことがあります。けれども、この出来事を通して、神様の御言葉は子どもたちの心にしっかり届き、その平和は波のように一人からまた一人へと広がっていくことを改めて教えられました。
つまり、これまで私たちは、「平和を求めること」と、「神様が与えてくださる平和」について聞いてきました。そして今日、イエス様は、その平和を受けた私たちに、「今度はあなたが平和をつくる人になりなさい」と語りかけておられるのです。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」ここでイエス様は、「平和を願う人は幸いです」とも、「平和を愛する人は幸いです」ともおっしゃっていません。「平和を実現する人」、あるいは「平和をつくる人」が幸いだと言われるのです。
私たちは、「平和があればいいな」と願うことはできます。争いを見て、「早く仲直りすればいいのに」と思うこともあります。しかし、イエス様はそこで立ち止まらせません。「あなたが平和をつくる人になりなさい。」そう呼びかけておられるのです。「つくる」という言葉には、働きがあります。家は建てる人がいて初めて建ち、畑は耕き、種をまく人がいて実ります。平和も同じです。放っておいて生まれるものではありません。誰かが勇気を出して声を掛け、一歩譲り、赦し合うとき、そこに平和は生まれていくのです。イエス様は、そのような働きをする人を、「神の子」と呼ばれるほど尊い存在だと言われました。今日は、この山上の説教の「幸い」の言葉の中から、私たちはどのようにして平和をつくる者として歩むことができるのか、そしてなぜその人が「神の子」と呼ばれるのかをご一緒に御言葉から聴いていきたいと思います。
イエス様が語られたこの「幸い」の言葉は、最初に「心の貧しい人々は、幸いである」と始まり、最後に「平和を実現する人々は、幸いである」と続いています。つまり、「平和をつくる人」というのは、特別な才能を持った人のことではありません。神様の前で自分の弱さを知り、柔和で、憐れみ深く、心を清められた人が、神様によって少しずつ造り変えられ、平和をつくる人へと導かれていくのです。ですから、平和をつくることは、一つの技術ではありません。神様との関係から始まる生き方なのです。
では、イエス様が言われる「平和」とは何でしょうか。私たちは平和というと、「けんかがないこと」や「静かで穏やかなこと」を思い浮かべます。もちろん、それも平和です。しかし、聖書のいう平和、「シャローム」はもっと深い意味があります。シャロームとは、神様との関係が回復し、その平和が人との関係へと広がっていくことです。私たちはまず神様との平和をいただいた者です。罪によって神様から離れていた私たちのために、イエス様は十字架にかかってくださいました。その十字架によって、神様との間にあった壁が取り除かれました。神様との平和を与えられた人だからこそ、人との平和をつくることができるのです。
ここで、考えてみたいことがあります。平和をつくる人というと、「誰とでも仲良くできる人」や「争いを避ける人」を思い浮かべるかもしれません。しかし、それだけではありません。時には、本当の平和のために勇気を出して話し合うことも必要です。問題が起こっているのに見て見ぬふりをすることは、平和ではありません。ただ波風を立てないことと、平和をつくることは違います。イエス様も、間違っていることにははっきりと語られました。それは相手を傷つけるためではなく、愛をもって神様のもとへ導くためでした。平和をつくる人とは、そのように愛をもって真実を語る人でもあるのです。
私たちの日常を考えてみましょう。「ごめんなさい。」「ありがとう。」この二つの言葉がなかなか言えないことがあります。保育園では、子どもたちがおもちゃの取り合いをして泣いていても、一人が勇気を出して「ごめんね」と言うと、もう一人も「いいよ」と答え、また一緒に遊び始めることがあります。平和は、その小さな一歩から生まれていくのです。
「ごめんなさい」「ありがとう」の一言が、張りつめた空気を変え、平和への第一歩になります。教会でも同じです。考え方が違うからこそ、自分の思いを通すのではなく、キリストの愛のうちに一つになることを大切にしたいのです。
そして、お気づきかもしれませんが、「平和をつくる」ということは、一人ではできません。相手がいるからです。だから難しいのです。自分だけが努力しても思うようにならないことがあります。謝っても受け入れてもらえないこともあります。優しくしても誤解されることもあります。イエス様は、そのことをご存じでした。それでもなお、「平和を実現する人々は幸いである」と言われました。結果ではなく、平和をつくろうとする歩みを神様は喜んでくださるのです。イエス様ご自身が最も偉大な平和をつくる方でした。人間は神様に背を向け、互いに争い、憎み合う存在でした。その私たちを神様と和解させるために、イエス様は十字架への道を歩まれました。十字架は、人間の憎しみが集まった場所でした。しかし神様は、その十字架を世界で最も大きな平和を生み出す出来事へと変えられました。イエス様は、ご自分の命をもって平和をつくってくださったのです。
だから私たちは、平和をつくる者となることができます。私たちが平和をつくるのは、自分の力だけではありません。十字架の主が共にいてくださり、聖霊が私たちの心を整え、神様の愛が私たちを支えてくださるからです。「平和を求める」ことから始まり、「平和の波」が私たちの心に広がり、そして今日、「平和をつくる」者へとイエス様は私たちを招いておられます。神様からいただいたシャロームは、私たちの心にとどまるためではありません。その平和を、今度は私たちが家庭や教会、職場や地域へと届けていくためです。
そのことを思うとき、この一週間に起こった熊本の大きな地震を思わずにはいられません。建物が倒壊し、暑さの中で避難生活を続けておられる方々がおられます。教会や保育園にも被害が及び、困難な中で歩んでおられると聞いています。被災された方々は、「なぜ、このようなことが起こるのですか」と神様に問いかけておられることでしょう。私たちにも、その問いに簡単に答えることはできません。しかし、そのような中でも、九州教区では地震救援対策本部が立ち上げられ、被害の状況を確かめながら支援の準備が進められています。多くの教会や信徒が祈り、献金し、支えようとしています。そこにも「平和をつくる人々」の姿を見ることができます。平和とは、苦しみが全くない状態だけをいうのではありません。苦しみの中にいる人に寄り添い、涙を共にし、「あなたは一人ではありません」と伝えていくことも、イエス様が私たちに託してくださった平和をつくる働きではないでしょうか。
今週も、家庭で、職場で、学校で、教会で、そして被災地を覚える祈りの中でも、「あの人がいたから励まされた」「あの人がいたから希望を持つことができた」と言われるような、平和をつくる一人として歩んでまいりましょう。イエス様は私たちにこう約束してくださいます。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」神様の愛を受けた者として、その愛と平和を周りへ届ける一週間を歩んでまいりましょう。

