7月26日 主日礼拝 メッセージ

2026年7月26日 主日礼拝  説教

イザヤ書48章17-19節 「平和の波」

 先週は、ヘブライ人への手紙12章14節から、「平和を求める」という題で御言葉を聴きました。そこでは、「すべての人と平和を追い求めなさい」という神様の勧めが語られていました。平和とは、ただ願うだけではなく、自ら求め、追い求めていくものなのです。

 皆さんは、「平和」と聞くと、どのような景色を思い浮かべるでしょうか。戦争のない世界でしょうか。家族が仲良く暮らしている姿でしょうか。あるいは、病気や不安がなく、安心して眠ることのできる毎日を思い浮かべる方もおられるかもしれません。私たちは皆、平和を願っています。世界では今も戦争や紛争が続き、日本でも災害や事件、物価の高騰や将来への不安など、「心穏やかに生きること」が簡単ではない時代を生きています。しかし、考えてみると、「平和」とは、単に問題が何もない状態だけではありません。困難があっても、心が落ち着いていること。先が見えなくても、神様が共にいてくださると信じて歩めること。聖書が語る平和には、そのような深い意味があります。

 今日の聖書の言葉の中で、特に心に留めたいのが18節です。「わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる。」神様は、「平和は大河のように」と語られます。そして、その平和は静かに流れるだけではありません。海に注ぐ川のように絶えることなく流れ続け、さらに海では大きな波となって広がっていきます。今日は、この御言葉から、「平和の波」ということを一緒に聴いていきたいと思います。

 神様が与えてくださる平和は、自分一人の心の中だけに留まるものではありません。それは波紋のように家族へ、教会へ、地域へと広がっていくものです。では、その「平和の波」はどこから始まるのでしょうか。

 イザヤは、その始まりは「神様の言葉に耳を傾けること」にあると語っています。そして「平和は大河のように。」「恵みは海の波のように。」この言葉を読むと、穏やかに流れる大河や、繰り返し浜辺に打ち寄せる波の姿が思い浮かびます。大河は止まりません。雨が降っても、晴れていても、静かに流れ続けます。そして海の波も、一度だけ打ち寄せるのではありません。何度も何度も岸辺に押し寄せます。神様が与えてくださる平和も、そのようなものだと言われるのです。

 しかし、この約束の前には、「わたしの戒めに耳を傾けるなら。」という言葉があります。ここが大切です。17節で神様はご自身を「わたしは主、あなたの神。わたしはあなたを教えて力をもたせ、あなたを導いて道を行かせる。」と紹介されます。神様は命令するだけのお方ではありません。良い道を示し、私たちを幸せへ導こうとされるお方です。子どもが道路へ飛び出そうとするとき、親は「だめ」と言います。それは自由を奪うためではありません。命を守るためです。同じように神様の戒めも、私たちを縛るためではなく、命と平和を守るために与えられています。

 ところが私たちは、自分の考えを優先します。「自分の方が分かっている。」「神様の言葉より、自分の思いを大切にしたい。」その結果、人との争いが起こり、社会が乱れ、心にも平安がなくなります。イザヤが語っているイスラエルも同じでした。神様から離れ、偶像を拝み、自分勝手な道を歩みました。その結果、バビロン捕囚という苦しみを経験しました。だから神様は「あなたが耳を傾けてくれていたなら。」と嘆かれます。神様は裁きを喜ばれる方ではありません。平和を与えたいのです。そのために何度も呼び掛けておられるのです。

 ここで「平和」という言葉に目を向けたいと思います。旧約聖書の「平和」は、「シャローム」という言葉です。シャロームとは、争いがないというだけではありません。神様との関係が回復し、心が満たされ、人との関係も整えられ、生活全体が祝福されることです。つまり神様との正しい関係から生まれる豊かな命です。その平和を神様は「大河」にたとえられました。

 大河には特徴があります。第一に、絶えず流れています。水は止まりません。止まった水は濁ります。流れる水は新鮮です。神様の平和も、一度だけ与えられて終わるものではありません。毎日新しく与えられる恵みです。朝ごとに神様の言葉を読み、祈り、礼拝を守る。そこから平和は流れ続けます。第二に、大河は命を育てます。世界の大きな文明は大河のそばで栄えました。水があるから作物が育ちます。人が生きられます。神様の平和も、私たちの人生を潤します。疲れた心に力を与え、傷ついた心を癒やし、希望を失いそうな時にも、再び立ち上がる力をくださいます。

 さらに神様は「恵みは海の波のようになる。」と言われます。波は自分のところだけで終わりません。岸へ岸へと広がっていきます。神様の平和も同じです。一人の心に与えられた平和は、周囲へ広がっていきます。家庭でもそうです。誰か一人が穏やかでいるだけで、家全体の雰囲気が変わります。教会でもそうです。互いに赦し合い、祈り合う人がいると、教会全体が温かくなります。職場でも、地域でも同じです。神様の平和は、波紋のように広がっていくのです。

 例えば、園庭の様子を見ていても、「平和の波」を見ることがあります。毎週土曜日になると、保育園の職員が日曜日のために園庭の遊具を片付けてくれています。教会学校の子どもたちが遊びやすいように、また礼拝に来られる方が駐車しやすいようにするためです。その働きは目立ちません。誰かに褒められるためでもありません。そして日曜日には、遊具を使ったあとに元の場所へ戻してくださる教会の方もおられます。毎週、片付ける人がいて、また元に戻す人がいる。その繰り返しの中に、「次に使う人のために」という思いやりがあります。その思いやりが自然と受け継がれていくとき、人は安心してその場所を使うことができます。私は、そのような姿を見るたびに、「平和の波」が広がっているのだと感じます。神様が与えてくださる平和とは、そのように一人から次の人へと受け渡され、さらに広がっていくものなのではないでしょうか。

 

 私たちは世界中の戦争を止めることはできません。しかし、自分の語る一つの優しい言葉、一つの赦し、一つの祈りから、平和の波を起こすことはできます。イエス様は「平和を実現する人々は、幸いである。」と言われました。平和は誰かが与えてくれるものを待つだけではありません。神様からいただいた平和を、周りへ届ける使命が私たちにはあります。

しかし、私たちは自分の力だけでは平和を保てません。すぐに怒り、不満を抱き、人を責めてしまいます。だからこそ神様は御子イエス・キリストを遣わされました。イエス様は十字架によって、神と人との間にあった隔てを取り除き、平和をもたらしてくださいました。

 私たちが神様と和解したとき、本当のシャロームが始まります。そこから平和の川が流れ出します。そこから平和の波が広がっていきます。私たちはその源を自分の中に持っているのではありません。イエス様につながることで、絶えることのない平和が与えられるのです。

 今日、神様は私たち一人一人に「わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる。」と語っておられます。神様は平和を惜しみなく与えたいと願っておられます。その平和は、今日ここから流れ始めます。神様の御言葉に耳を傾けるところから始まります。そして、その平和は大河のように私たちを潤し、海の波のように家庭へ、教会へ、地域へ、さらに世界へと広がっていきます。私たちは毎週礼拝で神様の御言葉を聞きます。その御言葉は、礼拝堂の中だけにとどまるためではありません。この一週間、それぞれが遣わされる場所で、「平和の波」を広げるためです。家庭で交わす一つの優しい言葉。誰かのためにささげる祈り。赦す勇気。困っている人への小さな親切。その一つ一つを通して、神様は平和の波を広げてくださいます。どうか今週も、主イエス・キリストから与えられるシャロームを受け、その平和を携えて歩む者となりましょう。神様は今日も、私たち一人一人を、平和の波を広げる器として用いてくださるのです。