7月19日 主日礼拝 メッセージ
ヘブライ人手紙12章14-15節 「平和を求める」
皆さんは、「平和」と聞くと、どのようなことを思い浮かべるでしょうか。世界では今も戦争や紛争が続き、「平和がほしい」と願う人々がたくさんいます。また、私たちの身近なところでも、家庭や職場の中で、人と人との関係がぎくしゃくし、「穏やかでいたい」「仲良く過ごしたい」と願うことがあります。しかし、よく考えてみると、平和というものは、ただ願っているだけで自然に与えられるものではありません。何もしなければ、誤解は深まり、怒りは積み重なり、人と人との距離は少しずつ広がってしまいます。平和は、放っておけば失われてしまうものなのです。
今日お読みしたヘブライ人への手紙には、「すべての人と平和を追い求めなさい」とあります。「追い求める」と訳されている言葉には、一生懸命に追いかける、熱心に求め続けるという意味があります。つまり、平和は待っているだけではなく、自ら進んで求めていくものだというのです。さらに、この聖書は平和だけではなく、「聖なる生活を追い求めなさい」とも語ります。そして続く15節では、「神の恵みから除かれることがないように、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように」と勧めています。
なぜ、平和を追い求めることと、神の恵み、そして「苦い根」が結び付けて語られているのでしょうか。平和を壊す本当の原因は、外側の出来事だけではなく、私たち一人ひとりの心の中にもあるからです。今日は、この御言葉から、神様が私たちに求めておられる「平和を求める歩み」とはどのようなものなのかをご一緒に聴いていきたいと思います。まず14節に「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることができません。」とあります。ここで印象的なのは、「平和を保ちなさい」ではなく、「平和を追い求めなさい」と書かれていることです。この「追い求める」という言葉は、何もしなくても手に入るものではなく、自分から積極的に求めていく姿勢を表しています。私たちは、「あの人が変われば平和になる」「向こうから謝ってくれればいい」と考えがちです。しかし聖書は、相手ではなく、まず私たち自身に語りかけます。
「あなたが平和を追い求めなさい。」これは決して簡単なことではありません。傷つけられた時には言い返したくなります。誤解された時には、自分を正当化したくなります。無視された時には、こちらも距離を置きたくなります。しかし、そのままでは平和は生まれません。だからこそ、神様は私たちに「追い求めなさい」と命じられるのです。
しかし、この言葉を聞いて、「では、私たちはもっと努力しなければならないのか」と感じる方もおられるかもしれません。実はヘブライ人への手紙は、そのようなことを語っているのではありません。ヘブライ人への手紙全体を読むと、一つの大切なテーマがあります。それは、イエス・キリストによって、私たちは神様との間に平和を与えられたということです。罪によって神様から離れていた私たちのために、イエス様は十字架にかかってくださいました。その十字架によって、神様との隔たりは取り除かれました。私たちは、自分の努力によって神様に受け入れられるのではありません。神様の恵みによって受け入れられています。
だから15節では、「神の恵みから落ちることがないように」と勧められているのです。神様は、「もっと頑張った人だけを愛する」とは言われません。神様は、恵みによって私たちを愛してくださいました。その恵みに生かされている人だからこそ、人にも恵みを分け与えることができるのです。神様との平和を知らないまま、人との平和だけを築こうとしても、長続きしません。しかし神様に赦されたことを知る人は、人を赦す力を少しずつ与えられていきます。愛されたことを知る人は、人を愛することを学びます。これが福音の力です。15節には、少し変わった表現があります。「苦い根が生え出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように気を付けなさい。」とあります。植物は地上に見えている部分よりも、土の中の根の方が大切です。根が病気になれば、やがて木全体が枯れてしまいます。人間の心も同じです。表面では笑っていても、心の奥に苦い思いを抱え続けることがあります。「あの時あんなことを言われた。」「あの人だけは許せない。」「なぜ私ばかり。」最初は小さな思いです。しかし、それをそのままにしておくと、やがて根を張り、大きく育ってしまいます。そして本人だけでは終わりません。家庭の中にも、教会の中にも、職場にも、その苦さが広がっていくのです。一人の不満が周囲を暗くすることがあります。一つの陰口が人間関係を壊すことがあります。だから神様は、「苦い根が芽を出さないように」と警告されるのです。
では、苦い根を抜くには、どうしたらよいのでしょうか。無理に忘れようとしても忘れられません。自分の力だけでは、人を赦す事は出来ません。だから15節は最初に、「神の恵みから除かれることがないように」と言っています。恵みを忘れる時、人は苦くなります。しかし恵みを思い出す時、人は柔らかくなります。「私は神様に赦された。」「神様は今も私を愛してくださっている。」その恵みを何度も思い返す時、不思議なことに、人を見る目も変えられていきます。もちろん、一度で全部赦せるわけではありません。それでも神様は、「今日も平和を追い求めなさい」と励ましてくださいます。
イエス様は山上の説教でこう言われました。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」平和を願う人ではありません。平和をつくる人です。そのためには、自分から挨拶することかもしれません。自分から謝ることかもしれません。相手の話を最後まで聞くことかもしれません。あるいは誰かのために祈ることかもしれません。
その一つ一つは小さなことです。しかし、その小さな一歩を神様は喜んでくださいます。私たちの教会も、家庭も、職場も、この地域も、そのような小さな平和の積み重ねによって変えられていくのです。
ヘブライ人への手紙は、「平和を追い求めなさい」と語ります。それは、自分の力だけで平和をつくり出しなさいという命令ではありません。十字架によって神様と和解させていただいた者として、その恵みに生き、その恵みを人へと流していきなさい、という招きです。私たちは時に失敗します。腹を立てることもあります。赦せない日もあります。それでも神様は、「もうあなたはだめだ」とは言われません。何度でも私たちを恵みの中へ招き、「もう一度立ち上がりなさい」と励ましてくださいます。神様の恵みは、昨日だけのものではありません。今日も、そして明日も新しく注がれています。だから私たちは、何度でも平和を追い求める歩みを始めることができます。
この世界には、今も争いがあります。家庭にも、職場にも、思い通りにならない現実があります。しかし、そのような現実のただ中に、復活されたイエス・キリストは今日も立っておられ、「あなたに平和があるように」と語りかけてくださっています。その主が私たちと共に歩んでくださるなら、どんなに小さな一歩であっても無駄になることはありません。神様はその一歩を用いて、人と人との関係を少しずつ変え、教会を造り、地域を祝福し、御国の平和を広げてくださいます。その希望を胸に、神様の恵みに立ちながら、一歩ずつ平和を追い求める者として、この一週間も歩んでまいりたいと思います。

