7月12日 主日礼拝 メッセージ

詩編148編1-6節 「与えられた場所で輝く」

 皆さんは、最近ゆっくりと夜空を見上げたことはあるでしょうか。私は、先週の金曜日に保育園のお泊り保育の夜に子どもたちと空を見上げる時がありました。最初は、1つ2つしか見えなかったのですが、だんだん目が慣れてくるといくつも見えるようになってきます。星を見上げていると、不思議な気持ちになります。「あんな遠くにある星が、今も光を届けてくれている。」「自分はなんて小さな存在なのだろう。」そんな思いになることがあります。

 しかし、今日お読みした詩編148編は、その広大な宇宙を見て驚くだけでは終わりません。詩人は夜空を見上げながら、「日よ、月よ、主を賛美せよ。輝く星よ、主を賛美せよ。」と呼びかけます。星は言葉を話しません。歌声を聞くこともできません。それなのに詩人は、「星が神様を賛美している」と歌います。詩人は、星がそこに存在し、定められた場所で変わることなく輝き続けている、その姿そのものが神様への賛美なのだと見つめているのです。今日は、この「輝く星よ、主を賛美せよ」という御言葉から、私たちはどのように神様を賛美する者として生きるのかをご一緒に考えていきたいと思います。

 詩編は二千数百年前に歌われた信仰の歌です。しかし、当時の人も私たちも、同じ太陽を見、同じ月を見、同じ星を見上げています。だから詩編の言葉は、今も私たちの心に語りかけてくるのです。そして思わずこう歌いました。「日よ、月よ、主を賛美せよ。輝く星よ、主を賛美せよ。

 しかし、私たちは少し不思議に思います。星は言葉を話しません。歌を歌うこともありません。それなのに、どうして「主を賛美せよ」と呼びかけているのでしょうか。それは、聖書が考える「賛美」は、口で歌うことだけではないからです。もちろん、私たちは礼拝で讃美歌を歌います。神様に向かって祈ります。これも大切な賛美です。しかし、聖書にはもう一つの賛美があります。それは、神様がお造りになったものが、神様から与えられた姿のままに存在することです。

 星は、自分で「今日は休もう」とは言いません。「今日は違う場所へ行ってみよう」とも言いません。神様がお定めになった軌道を保ちながら、毎日、毎年、何千年もの間、静かに輝き続けています。詩人は、その姿を見て、「星は神様を賛美している」と受け止めたのです。太陽も月も、神様がお定めになった秩序の中で、それぞれの役割を果たしています。被造物は、与えられた使命を忠実に果たすことで神様を賛美しているのです。だから詩編148編は、天地にあるすべてのものに向かって、「主を賛美せよ」と呼びかけるのです。

 一節には、「ハレルヤ。天において主を賛美せよ。」とあります。そして二節では御使いたち、三節では太陽や月、星々、四節では天と天の上の水、さらに七節からは海の生き物、山、木々、動物たちへと呼びかけが続いていきます。最後には王や民、老人も若者も子どもも、すべての人々にまでその呼びかけは広がっていきます。つまり、この詩編は、「宇宙全体が神様を賛美している」という壮大な賛美の歌なのです。

 では、なぜ被造物は神様を賛美するのでしょうか。その答えが五節、六節にあります。「主が命じられて、それらは創造された。主はそれらを世々限りなく立て、越ええない掟を与えられた。」ここには、創世記の世界が思い起こされます。神様は、「光あれ」と言われると光が生まれました。「天に大空あれ」と言われると、大空が造られました。太陽も月も星も、神様の御言葉によって造られたのです。神様が「ありなさい」と命じられたから、そこに存在しています。 そして神様は、それぞれに居場所と役割を与えられました。どれ一つとして、自分勝手に存在しているものはありません。全てが神様の御心の中で造られ、生かされているのです。

 ここで私たちは、大切なことに気づかされます。それは、星が輝いているのは、自分のためではないということです。星は、「私を見てほしい」と競い合っているのではありません。神様から与えられた場所で、神様から与えられた光を放っているだけです。しかし、その姿を見る人は、「なんて美しいのだろう」と心を動かされます。そして、その美しさの向こうに創造主なる神様の偉大さを見るのです。私たちも同じではないでしょうか。神様は一人ひとりを造られました。一人として同じ人はいません。性格も違います。得意なことも違います。歩んできた人生も違います。それなのに、私たちは、つい人と比べてしまいます。

 しかし神様は、私たちに誰かになることを求めておられるのではありません。神様が願っておられるのは、神様が与えてくださった命を感謝し、その人らしく歩むことです。星が星として輝くように、私たちも神様から与えられた場所で、神様に信頼して歩む。その生き方そのものが、神様への賛美となるのです。しかし、ここで一つの疑問が生まれます。星は、神様がお造りになったとおりに輝いています。太陽も月も、神様がお定めになった秩序の中で、その役割を果たしています。

 それでは、人間はどうでしょうか。人間だけは少し違います。神様は私たちをロボットのようには造られませんでした。神様は私たちに、自分で考え、自分で選び、自分で行動する自由を与えてくださいました。その自由があるからこそ、人は神様を愛することもできます。しかし同時に、その自由によって神様から離れてしまうこともあります。聖書はこれを「罪」と呼びます。それは単に悪い行いではなく、本来神様を中心に生きるよう造られた私たちが、自分中心に生きようとすることです。神様を忘れ、自分の思いだけを頼りに歩もうとすることです。その結果、人は互いに傷つけ合い、自然を壊し、自分自身さえ大切にできなくなってしまいました。

 だからこそ、詩編148編は、人間にも「主を賛美せよ」と呼びかけているのです。私たちは放っておいても神様を賛美できる存在ではありません。神様からの呼びかけ「あなたも、わたしを賛美するために造られたのだ。」を聞き直す必要があります。神様は、そのように私たちを招いておられるのです。

 では、どうすれば私たちは神様を賛美する者として生きることができるのでしょうか。その答えは、新約聖書において明らかにされています。それは、イエス・キリストによってです。イエス様は、天の父なる神様の御心に完全に従われたお方でした。イエス様は最後まで父なる神様の御心に従い、十字架への道を歩まれました。その生涯そのものが、神様への完全な賛美でした。

 私たちは、そのようには生きることができません。それでもイエス様は、そのような私たちを見捨てられませんでした。十字架によって私たちの罪を担い、復活によって新しい命を与えてくださいました。そして今も聖霊によって、私たちを神様の子どもとして新しく生かしてくださっています。だから、神様を賛美する人生とは、「失敗しない人生」のことではありません。何でも完璧にできる人になることでもありません。神様を信頼し、失敗しても何度でも立ち上がり、神様と共に歩み続ける人生です。そのような歩みを、神様は喜んでくださるのです。

 夜空の星には、それぞれ明るさが違います。しかし、どの星も必要があって神様が造られました。「この星はいらない」と言われる星は一つもありません。私たちも同じです。教会には、色々な役割を担う人がいます。神様は一人ひとりに賜物を与え、それぞれの場所で輝くように招いておられます。大切なのは人と比べることではなく、神様に与えられた場所に忠実であることです。その歩みは、小さく見えるかもしれません。けれども神様は、その歩みをご覧になり、「よくやった」と喜んでくださるのです。

 「日よ、月よ、主を賛美せよ。輝く星よ、主を賛美せよ。」夜空の星は、自分のために輝いているのではありません。神様がお造りになったその姿のままに輝くことで、創造主の栄光を映し出しています。私たちも同じです。神様は、一人ひとりに命を与え、それぞれの場所と役割を与えてくださいました。神様を信頼し、与えられた場所で誠実に歩むこと、その歩みそのものが神様への賛美となるのです。

 時には雲に隠れて星が見えなくなる夜があります。しかし、星が消えてしまったわけではありません。同じように、私たちも悩みや苦しみの中で、自分の歩みが見えなくなることがあります。それでも神様は私たちを見失うことなく、変わらぬ愛をもって支え続けてくださいます。ですから、今日も神様を見上げながら、自分に与えられた場所で、神様の恵みに生かされて歩んでまいりましょう。