6月28日 主日礼拝 メッセージ
マタイによる福音書13章31-32節 「小さな種から」
皆さんは、小さなものが大きく成長する姿を見て驚いたことはありませんか。春に蒔いた小さな種が、夏になると大きな花を咲かせたり、野菜を実らせたりします。朝顔やミニトマトを育てたことのある方もおられるでしょう。最初は指先に乗るほどの小さな種です。しかし土の中で芽を出し、少しずつ成長して、やがて自分の背丈よりも大きくなることもあります。
また、私たちの人生にも似たようなことがあります。何気なくかけた一言が誰かを励まし、その人の人生を支える言葉になることがあります。小さな親切が大きな喜びにつながることがあります。反対に、「こんな小さなことをしても意味がない」と思っていたことが、後になって大きな実りを生むこともあります。私たちはつい、大きなものや目立つものに価値を感じます。人数が多いこと、立派な建物があること、すぐに結果が見えることを求めてしまいます。しかし神様は、私たちとは違う見方をなさいます。人が見過ごしてしまうような小さなものの中に、大きな可能性をご覧になるのです。
今日の聖書でイエス様は、「天の国はからし種に似ている」とお話になりました。天の国とは、神様が王として支配し、人々を愛と平和で治めておられる世界、神様の働きが現れているところです。しかし、その天の国は最初から大きく見えるものではありませんでした。イエス様は、なぜ壮大な宮殿や大きな木ではなく、「からし種」という小さな種をたとえに用いられたのでしょうか。そして、その小さな種と天の国はどこが似ているのでしょうか。今日の御言葉を通して、神様がどのように世界に働いておられるのか、また私たち一人ひとりの小さな信仰や愛の業をどのように用いてくださるのかを、ご一緒に聞いてまいりましょう。
さて、イエス様はここで「天の国は、からし種に似ている」と言われました。まず考えたいのは、「天の国」とは何かということです。私たちは「天国」という言葉を聞くと、亡くなった後に行く場所を思い浮かべるかもしれません。しかしイエス様が語られた「天の国」は、それだけではありません。天の国とは、神様が王として支配しておられる世界です。人間の思いではなく、神様の御心が行われるところ。憎しみではなく愛が支配するところ。争いではなく平和が広がるところ。自分中心ではなく神様中心に生きるところ。そのような神様の支配が始まるところが、天の国なのです。ですから天の国は、どこか遠い場所にあるものではありません。イエス様がおられるところに天の国があります。神様の御言葉が聞かれるところに天の国があります。神様の愛が実践されるところに天の国があります。教会もそうです。家庭もそうです。学校も職場もそうです。神様の御心が行われるところに、天の国はすでに始まっているのです。
ところが、その天の国は人間の目にはとても小さく見えます。イエス様が活動しておられた当時、多くの人は力強い王を待ち望んでいました。ローマ帝国を倒してくれる王。軍隊を率いる王。目に見える力で世界を変えてくれる王。しかしイエス様は違いました。ナザレという小さな村の出身でした。弟子たちも漁師や徴税人など、ごく普通の人々でした。軍隊も持っていません。権力もありません。財産もありません。もし当時の人々が見たなら、「こんな小さな集まりで世界が変わるはずがない」と思ったことでしょう。
しかしイエス様は言われます。「天の国はからし種に似ている」からし種は非常に小さな種です。手のひらに乗せても見失いそうなほど小さい。けれども、その中には命があります。成長する力があります。やがて大きく育つ可能性があります。天の国も同じだというのです。神様の働きは、いつも小さなところから始まります。アブラハム一人からイスラエル民族が生まれました。モーセ一人を通して民は救われました。少年ダビデが王になりました。そして一人の赤ちゃんとして生まれたイエス様を通して、世界の救いが始まりました。
神様は大きなものよりも、小さなものを用いられるのです。なぜでしょうか。
それは、人間の力ではなく神様の力が現されるためです。もし最初から大きくて強いものであれば、人はそれを人間の力だと思うでしょう。しかし小さな種が大きな木になるとき、人はそこに神様の力を見るのです。私たちの人生も同じではないでしょうか。神様を信じた最初の時を思い出してください。ほんの小さなきっかけだったかもしれません。誰かから誘われて教会に行った時だったかもしれません。聖書の言葉に少し心が動かされた時だったかもしれません。
しかしその小さな種が、神様によって育てられてきたのです。気がつけば祈るようになりました。御言葉に励まされるようになりました。苦しみの中でも神様を信頼できるようになりました。神様は小さな種を大きく育ててくださる方なのです。
私は保育園で子どもたちと接していて、いつも不思議に思うことがあります。私たち大人は、「子どもたちに何をしてあげられるだろう」と考えます。職員は毎日、一人ひとりの子どもたちのために心を配ります。泣いている子がいれば抱きしめます。転んだ子がいれば手を差し伸べます。できないことがあれば励まします。その姿はまさに、小さなからし種に愛の水を注いでいるようです。
けれども、よく考えると、愛を与えているのは職員だけではありません。私たち大人の方が、子どもたちから大きな愛を受け取っていることがあります。朝、「おはよう」と笑顔で駆け寄ってきてくれる子ども。「こんなことがあった」と言ってくれる子ども。何気ない言葉で私たちの心を温かくしてくれる子ども。体は小さいけれど、その子どもたちを通して神様が与えてくださる愛は、とても大きいのです。私たちは子どもたちを育てているつもりですが、実は私たち自身も子どもたちによって育てられているのではないでしょうか。
さらに私は、神様の国の不思議を卒園した子どもたちの姿の中にも見ることがあります。保育園にいた頃は、本当に小さな子どもたちでした。毎日泣いていた子もいました。お母さんと離れられなかった子もいました。ところが何年かたって、大きくなった姿で保育園に遊びに来てくれることがあります。中には教会学校に来てくれる子どもたちもいます。保育園で聞いた聖書のお話を覚えていてくれる子もいます。クリスマスになると教会を訪ねてくれる子もいます。その姿を見るたびに思うのです。職員が毎日注いできた愛。神様のことを伝え続けた小さな働き。礼拝で聞いた御言葉。一緒に歌った讃美歌。その一つひとつは、当時は小さなからし種のように見えたかもしれません。しかし神様は、その種を子どもたちの心の中で育てていてくださったのです。
天の国とは、このようなものなのかもしれません。目に見える大きな成果ではありません。すぐに結果が分かるものでもありません。けれども、神様の愛が一人の人に届けられる。その愛が心の中に蒔かれる。そして何年もかけて育てられる。やがてその人が誰かを愛し、誰かを支え、誰かの居場所になる。それはまさに、からし種が大きな木になり、その枝に鳥たちが宿る姿ではないでしょうか。
だから私たちは、小ささを恐れる必要はありません。結果がすぐに見えなくても失望する必要はありません。なぜなら、からし種を大きな木へと育てるのは私たちではなく神様だからです。私たちも神様を信頼して、今日与えられた場所で愛の種を蒔き続けていきましょう。神様はその小さな種を用いて、天の国を広げてくださるのです。

