6月21日 主日礼拝 メッセージ
ヨハネによる福音書12章24節 「地に落ちても」
皆さんは、園庭にあったザクロの木を覚えておられることと思います。長い間、あの木はこの場所に立ち続けていました。春には新しい葉をつけ、夏には木陰を作り、秋には赤い実を実らせました。子どもたちがその下で遊んだり、見上げたり、実を見つけて喜んだりした姿を覚えておられる方も多いと思います。卒園した子どもたちの中にも、「ザクロの木」と聞くと、園で過ごした日々を思い出す人が多くおられるようです。
そんな長年親しまれてきた木でしたが、二か月前にその木を伐ることになりました。安全上の理由もあり、必要なことだったとはいえ、その姿が見えなくなったことに、やはり少し寂しい気持ちになります。「あの木がなくなってしまったんだなあ」そう感じた方もおられるのではないでしょうか。
私たちは何かを失うとき、寂しさを感じます。慣れ親しんだ風景が変わるとき、時代が移り変わるとき、大切な人との別れを経験するときにも、同じような思いを抱きます。聖書は、そのような人の寂しさや悲しさにも目を向けています。むしろ、その気持ちを大切に受け止めながら、その先にある希望を語ります。
今日の聖書でイエス様はこう言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」地に落ちることは、一見すると終わりのように見えます。しかし神様は、その終わりの中から新しい命を生み出してくださるお方なのです。ではなぜイエス様は、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われたのでしょうか。日常を考えるなら、「生きれば実を結ぶ」と言いそうです。ところがイエス様は、「地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ」と言われるのです。もちろん、イエス様は本当に麦の話だけをしておられたのではありません。
この言葉は、まずイエス様ご自身のことを指しています。この時、イエス様は十字架にかけられる日が近づいていました。弟子たちは、イエス様が力ある王様になり、人々を救ってくださると期待していました。しかしイエス様は、人々の期待とは違う道を歩まれました。捕らえられ、苦しみを受け、十字架につけられたのです。
弟子たちから見ると、それは失敗でした。終わりでした。希望がなくなったように見えました。自分たちを導いてくださったイエス様が捕らえられ、十字架につけられてしまったのです。もう何もかも終わったと思ったことでしょう。
けれども神様は、その出来事を終わりにはされませんでした。イエス様を復活させ、新しい命をお与えになりました。キリスト教の信仰の中心には、この復活の出来事があります。それは単に「奇跡が起こった」という話ではありません。人間には終わりに見える出来事の中にも、神様は新しい希望を備えておられるということです。だからキリスト教は、苦しみや別れがないと言うのではありません。悲しみや涙の中にも、神様が共にいてくださることを信じるのです。
実は私たちの人生にも、同じようなことがあります。私たちは何かを失うことを恐れます。子どもの頃から慣れ親しんできたものがなくなる。大切な人と別れる。健康を失う。仕事や役割を終える。人生にはさまざまな「終わり」があります。そして終わりを経験するとき、私たちは不安になります。しかし聖書は、その終わりの向こうに神様の働きがあることを教えています。私たちには終わりに見えても、神様には新しい始まりであることがあるのです。
今日、私たちはザクロの木のことを思って集まられた方もおられるでしょう。長い間、この園を見守ってくれた木でした。たくさんの子どもたちの笑顔を見てきました。その全てを、あの木は静かに見守ってきました。だからこそ、伐られたときに寂しさを感じたのです。けれども今日、その木の枝は別の形になろうとしています。コースターやブローチになります。ただの木切れとして捨てられるのではありません。新しい役割を与えられるのです。もちろん、それは復活そのものではありません。しかし私は、この出来事の中に神様の大切なメッセージを見ることができるように思うのです。それは、「神様は無駄にされない」ということです。長い年月も無駄にされません。人の歩みも無駄にされません。涙も無駄にされません。別れも無駄にされません。神様は、それらを用いて新しいものを生み出されます。
今日皆さんが作られるものは、決して高価なものではないかもしれません。けれども、それを手にするとき、「ああ、この木は園庭にあったザクロの木だったな」と思い出すでしょう。「子どもが小さかった頃、この園に通っていたな」と思い出すかもしれません。「神様の守りの中で過ごした日々だったな」と思い出すかもしれません。そう考えると、その木は形を変えながら、これからも人々の心の中で生き続けるのです。
私たち人間も同じです。人は年を重ねます。若い頃のようにはできなくなることもあります。役割が変わることもあります。引退することもあります。そのとき私たちは、「もう自分の役目は終わった」と思ってしまうことがあります。しかし神様はそうは言われません。神様はいつも新しい使命を備えておられます。新しい出会いを備えておられます。新しい働きを備えておられます。終わりだと思ったところから、新しい祝福を始められるお方なのです。今は見えなくても、神様は働いておられる。今は終わりのように見えても、神様は新しい始まりを備えておられる。今日のザクロの木もそうです。木は伐られました。以前と同じ姿を見ることはできません。けれども、その木とともに過ごした時間までなくなったわけではありません。そして今日、その枝は新しい形となって私たちの手元に残ります。神様は、失われたように見えるものの中にも、新しい意味を与えてくださるお方です。だから私たちは、終わりだけを見るのではなく、その先にある神様の恵みを信じたいと思います。
今日、ザクロの木の枝などを使って作る物が、単なる記念品ではなく、神様の恵みと守りを思い出すしるしとなれば幸いです。そして私たち一人ひとりもまた、これから先の歩みの中で、神様が備えてくださる新しい祝福を信じて歩んでいきたいと思います。
神様は終わりを終わりのままにはなさいません。失われたように見えるものの中にも、新しい恵みを芽生えさせてくださいます。だから私たちは希望を持つことができます。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
神様は、地に落ちたものの中からも、新しい実りを生み出してくださるお方です。その神様の恵みを信じて共に歩んでまいりましょう。

