6月14日 主日礼拝 メッセージ

ヨハネによる福音書2章1-11節 「最初のしるし」

 皆さんは、何か新しいことを始める時、「最初」が大切だと思ったことはありませんか。例えば、学校の入学式や新しい職場での初出勤、初めて何かをお披露目する時など。最初に何をするかによって、どんな人なのかが少し見えてくることがあります。

 今日の聖書には、イエス様が行われた「最初のしるし(奇跡)」が記されています。私は、この話がイエス様の最初のしるしだと知って、何でこの出来事だったのかと不思議に思ったのですが、皆さんはどうでしたか。イエス様は、これから神の子として多くの働きをなさるのです。それなら最初のしるし奇跡は、重い病気を治すことだったり、苦しんでいる人を助けることだったり、あるいは大勢の人の前で力強い奇跡を見せることだったりしてもよかったのではないでしょうか。ところが、イエス様が最初に行われたのは、結婚式で足りなくなったぶどう酒を用意するという出来事でした。しかも、それは花婿や花嫁の命に関わる問題ではありません。ぶどう酒がなくなったとしても、結婚式そのものが中止になるわけではありません。なぜイエス様は、そのような場面で最初の奇跡をなさったのでしょうか。また、なぜただ水をぶどう酒に変えたというだけの出来事を、ヨハネはわざわざ「しるし」と呼んでいるのでしょうか。さらに最後には、「弟子たちはイエスを信じた」と書かれています。弟子たちは、すでにイエス様に従っていたはずです。それなのに、なぜここで改めて「信じた」と記されているのでしょうか。

 今日は、このカナの婚礼の出来事を通して、イエス様がどのようなお方であるのか、そして弟子たちが何を見て信じるようになったのかをご一緒に考えていきたいと思います。

 では、この出来事をもう少し詳しく見ていきましょう。まず、この奇跡が行われた場所は「婚礼の席」でした。当時のユダヤ社会において、結婚式は人生最大の喜びの祝いでした。親族や友人が集まり、何日も続く盛大なお祝いが開かれました。その席でぶどう酒がなくなるということは、単に飲み物が足りなくなるという以上の問題でした。花婿の家族にとって大きな恥となり、一生語り継がれる失敗になることもありました。

 そんな時、マリアはイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と伝えます。しかしイエス様は、少し不思議な言葉を返されます。「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」この「わたしの時」とは、ヨハネ福音書では十字架と復活によって栄光を現される時を意味しています。つまりイエス様は、ただ宴会の問題を解決するためだけに来られたのではないということです。それにもかかわらず、イエス様は奇跡を行われました。そこに置かれていた六つの石の水がめに水を満たし、それを最上のぶどう酒へと変えられたのです。

 ここで私は、疑問を持ちました。なぜ水だったのか。聖書はわざわざ、この水がめが「ユダヤ人が清めに用いるもの」であったと記しています。当時、人々は神様の前に清くなるため、食事の前や礼拝の前に手を洗い、身を清めていました。そのための水がめだったのです。つまり、この水は単なる水ではありません。古い宗教制度や律法による清めを象徴しているのです。イエス様は、その清めの水を豊かなぶどう酒へと変えられました。

 これは偶然ではありません。ヨハネはここに大切な意味を見ています。それは、イエス様によって新しい救いの時代が始まったということです。律法によって自分を清くしようと努力する時代から、神様の恵みと喜びに生かされる時代へ。形式的な宗教から、神様との生きた交わりへ。イエス様はそのことを、この最初のしるしによって示されたのです。さらに注目したいのは、その量です。六つの水がめは、一つが二、三メトレテス入ると書かれています。計算すると五百リットル以上にもなります。そんな大量のぶどう酒が必要だったでしょうか。明らかに必要以上です。イエス様は、ぎりぎり足りる分だけを与えられたのではありません。あふれるほどの豊かな祝福を与えられたのです。神様の恵みは、いつも私たちの計算を超えています。私たちはしばしば、「これだけあれば十分です」と考えます。しかし神様は、「わたしはもっと豊かに与える」と言われます。罪の赦しもそうです。愛もそうです。希望もそうです。神様は不足を埋めるだけのお方ではなく、豊かに満たしてくださるお方なのです。

 そして、この奇跡で最も大切なことは、ぶどう酒ができたことではありません。ヨハネは奇跡を「しるし」と呼びます。しるしとは、何かを指し示すものです。道路標識は目的地そのものではありません。その先を指し示します。同じように、この奇跡はイエス様の力を見せびらかすためではありません。イエス様がどなたであるかを指し示すためでした。水をぶどう酒に変えられる方。人間の不足を満たされる方。悲しみを喜びに変えられる方。古いものを新しくされる方。その方こそ神の子であるということを、このしるしは示しているのです。

 ですからヨハネは最後にこう記します。「弟子たちはイエスを信じた。」ここで、「あれ、弟子たちはすでに信じていたのではないか」と思います。確かに彼らはイエス様に従っていました。しかし信仰とは一度きりのものではありません。イエス様と共に歩みながら、少しずつ深められていくものです。弟子たちはこの時、ただ先生としてイエス様を見ていたところから、神の栄光を現されるお方として見始めたのです。信仰は奇跡を見ることによって生まれるのではありません。奇跡の背後におられるイエス様を見ることによって深められるのです。

 私たちも人生の中で様々な不足を感じます。健康の不安があるかもしれません。家族の問題があるかもしれません。将来への心配があるかもしれません。信仰の弱さを感じることもあります。まるで婚礼の席でぶどう酒がなくなったように、「もう足りない」と感じる時があります。しかしそのような時こそ、イエス様は私たちのただ中におられます。マリアが気付いたように、イエス様は人々の困りごとを見過ごされません。そして私たちには見えないところで働いておられます。水がぶどう酒に変わる瞬間を見た人はいませんでした。しかし確かに変えられていたのです。

 私たちの人生も同じです。すぐには分からなくても、神様は静かに働いておられます。失望を希望へ。恐れを平安へ。孤独を交わりへ。そして罪を赦しへと変えてくださいます。

カナの婚礼の奇跡は、単なる昔の不思議な出来事ではありません。イエス様が今も私たちの人生に豊かな恵みを注ぎ、喜びを与え、新しくしてくださるお方であることを示すしるしなのです。だから私たちも弟子たちと共に、このお方を見上げたいと思います。自分の不足ではなく、それを満たしてくださる主を見上げるのです。そして、この主に信頼しながら歩んでいきたいと思います。イエス様は今も、私たちの人生の水を、神様の祝福のぶどう酒へと変えてくださるお方なのです。