6月7日 主日礼拝 メッセージ

ペトロの手紙一 4章7-11節 「神様の贈り物」

 皆さんは、「あの人は才能があっていいなあ」と思ったことはあるでしょうか。スポーツが得意な人、歌が上手な人、人前で話せる人、絵を描くのが上手な人。あるいは、人の話を優しく聞ける人、困っている人にすぐ気づける人、誰かを励ますことができる人もいます。その人たちの事をつい、「あれはその人が頑張って手に入れた力だ」と考えます。もちろん努力もあります。しかし聖書は、それだけではないと言います。

 今日の聖書の中心である10節には、こうあります。「あなたがたは、それぞれ賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」ここで「賜物」と訳されている言葉には、「神様からの贈り物」という意味があります。つまり、自分の力だけで手に入れたものではなく、神様が与えてくださったものだというのです。
 では、どうしてそれが神様からの贈り物だと分かるのでしょうか。私たちは、自分がどんな性格で生まれるかを選んだわけではありません。どんな家庭に生まれるかも、どんな出会いを経験するかも、自分だけで決めたわけではありません。誰かを愛したいと思う心、人を助けたいと思う気持ち、励ましの言葉が自然に出てくること。そうしたものは、気づいてみると「与えられていたもの」ではないでしょうか。 また、自分では当たり前だと思っていることが、誰かを支える力になることがあります。「あなたの言葉で元気が出た」「あなたがいてくれて助かった」そう言われて初めて、自分に与えられている賜物に気づくこともあります。神様の賜物は、特別な人だけのものではありません。

 ペトロは、「あなたがたは、それぞれ賜物を授かっている」と語ります。「それぞれ」です。神様は、一人ひとりに違う恵みを与えておられるのです。けれども私たちは時々、「自分には大した賜物なんてない」と思ってしまいます。教会の中でも、「あの人はよく話せる」「あの人は立派な奉仕をしている」と見えて、自分は何もできていないように感じることがあります。しかし神様は、一人ひとりを違って造られました。 ですから、与えられる賜物も違います。話すことが得意な人もいます。人の話を聞くことが得意な人もいます。誰かを励ます人もいます。祈りによって支える人もいます。目立つ働きもあれば、目立たない働きもあります。しかし神様の目には、どちらも大切です。

 また、教会役員の方々の働きもそうです。礼拝を整え、会計を管理し、建物を守り、見えないところで教会を支えてくださっています。誰にも気づかれないまま終わる働きもたくさんあります。教会学校のスタッフも同じです。子どもたちのために祈り、礼拝の準備し、「今日は来てくれるかな」と待ち続ける。時には、なかなか話を聞いてもらえず、心が折れそうになることもあります。実は、教会は、そうした「目立たない賜物」によって支えられていることが少なくありません。
 それは、教会だけではありません。保育園の働きもそうです。毎朝、子どもたちを笑顔で迎える。泣いている子に寄り添う。けんかをした子どもたちの間に入る。何度も同じ話を聞き、何度も靴を履かせ、疲れていてもその子の名前を呼ぶ。それは簡単なことではありません。けれども、その一つひとつを通して、子どもたちは「自分は大切にされている」と感じていきます。その働きもまた、神様から与えられた賜物による奉仕なのです。
 しかし、神様から賜物を与えられているのは、大人だけではありません。子どもたちにも神様からの賜物が与えられています。子どもたちの素直な笑顔に励まされたことはないでしょうか。子どもたちのまっすぐな優しさや、何事にも一生懸命な姿に心を動かされたことはないでしょうか。
私たちは、大人が子どもを支えていると思いがちです。けれども実際には、大人もまた子どもたちからたくさんの贈り物を受け取っています。子どもたちの存在そのものが、神様から与えられた恵みであり賜物です。神様は子どもたちを通して、私たちに喜びを与え、希望を与え、初心を思い出させてくださることがあります。保育園のある職員が子どもからその職員に対して「何で僕が優しくしているか知っている」と問われたようです。「何で」と聞き返すと、その子は「僕が育ててあげているからや」と言ったそうです。ですから私たちは、子どもたちを育てるだけでなく、子どもたちを通して神様からの恵みを受け取っていることにも感謝したいと思います。

 では、その賜物は何のために与えられているのでしょうか。ペトロは言います。「その賜物を生かして互いに仕えなさい。」ここがとても大切です。賜物は、自分を誇るためではありません。「自分はこんなにできる」と人より上に立つためでもありません。むしろ、誰かを支えるために与えられているのです。神様は、私たちに与えた賜物を通して、人を励まし、人を慰め、人を支えようとしておられます。ですから、賜物は「自分のもの」でありながら、「自分だけのものではない」のです。
 例えば、ある人は歌が上手です。その歌声によって、疲れていた人が慰められるかもしれません。ある人は料理が得意です。その食事によって、孤独だった人が温かさを感じるかもしれません。ある人は、人の話を丁寧に聞くことができます。そのことで、心が救われる人がいるかもしれません。神様は、私たち一人ひとりを用いておられるのです。そして、ここでペトロは、「神のさまざまな恵みの善い管理者として」と言っています。これは興味深い言葉です。「管理者」というのは、自分の持ち物を好き勝手に使う人ではありません。主人から預かったものを、大切に用いる人です。つまり、賜物は「自分が所有しているもの」というより、「神様から預かっているもの」なのです。だから、「どうすれば自分が評価されるか」ではなく、「どうすれば神様の愛が伝わるか」を考えることが大切になります。
 時々、私たちは、自分に与えられていないものばかり見てしまいます。「あの人みたいに話せたら」「あの人みたいに行動できたら」「あんな才能があれば」けれども、神様は、他の人の賜物をあなたに求めておられるのではありません。神様は、あなたに与えたものを通して働こうとしておられるのです。「これくらいしかできない」と思うものを、神様は用いてくださいます。大切なのは、「大きいか小さいか」ではありません。「神様にお委ねするかどうか」です。

 さらにペトロは、11節でこう言います。「語る者は、神の言葉を語る者にふさわしく語りなさい。奉仕する者は、神がお与えになる力によって奉仕しなさい。」ここには、賜物を用いる時の姿勢が語られています。自分の力だけで頑張るのではない。神様から力をいただきながら仕えていくのです。私たちは時に疲れます。奉仕をしていても、「なぜ自分ばかり」と感じることがあります。人と比べて落ち込むこともあります。しかし、賜物の働きは、「自分が頑張って神様のために何かをしてあげる」ということではありません。まず、神様が私たちに恵みを与えてくださっている。だから、その恵みに押し出されて、私たちは互いに仕えていくのです。つまり、奉仕の出発点は「義務」ではなく、「恵み」なのです。神様から愛された。赦された。支えられている。だから、自分も誰かに仕えていきたい。そこから神様に繋がる交わりが生まれていきます。
 教会は、一人の力で成り立つ場所ではありません。神様から違う賜物を与えられた者たちが、互いに支え合いながら歩む群れです。だから、自分を小さく見すぎなくてよいのです。あなたにしかできない働きがあります。あなたにしか届けられない愛があります。神様は、あなたにも賜物を与えておられます。その賜物を通して、誰かが支えられ、慰められ、神様の愛に触れていくのです。私たち一人ひとりが、与えられた賜物を神様にお委ねしながら、互いに仕え合う群れとして歩んでいきたいと思います。